プロフィール

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今は、沖縄に住み、2018年に児童支援・福祉施設「ドーユーラボ」を開設してからは、のんびりとした生活を送っています。昔から何にでも興味を持ってしまう性格で、気づけばいろいろなことに挑戦してきました。小学生の頃に、坂本龍一氏や Yellow Magic Orchestra に夢中になり、シンセサイザーやコンピュータの世界に目覚めました。

ラジオを聴くうちに海外短波放送にも興味を持ち、ハンダゴテを片手に自作の受信機を作っていました。親戚が電気店を営んでいたこともあり、日立のマイコンに触れる機会にも恵まれました。マイコンに簡単なシンセサイザーの回路をつなぎ、音楽を作って遊んでいました。

当時の8bitマイコンでBASICを覚え、中学生になる頃にはゲーム制作にも熱中していました。詳しいことはもう覚えていませんが、某メーカーのプログラムコンテストで賞をいただき、その賞品として学校にパソコンが届いたそうです。ただ、昭和の時代は「ゲーム=不良」という空気も強く、残念ながら、その話はなかったことになってしまったようです。

高校生になると、本格的に作曲を始めました。Appleが好きだったこともあり、MacのラジオCM音楽を制作したことをきっかけに、コマーシャル音楽の仕事にも関わるようになりました。ただ、当時の音楽業界にあった体育会系の空気はどうしても苦手で、何度も辞めては別の道を探していました。

1996年にはゲーム会社へ入社しました。ゲーム音楽を制作したことをきっかけに、次第にゲームそのものの企画を考えるようになり、やがて音楽ゲームの制作にも携わりました。当時は、まだ「音楽ゲーム」というジャンル自体が存在していなかった時代だったように思います。

20代から30代 趣味をしごとにしていた。

会社や組織に縛られることが苦手だったので、その後もプレイステーションを開発している会社でゲーム制作に携わりながら、著名アーティストやCMの音楽制作も続けていました。社会人になってからの僕は、嫌な会社や苦手な人がいると、まるで脱走するようにすぐ辞めてしまう一方で、楽しいことや面白いことには夢中になって取り組むタイプでした。

20代前半に開発へ携わった「ビーマニ」をきっかけに、DJゲームからギター、ドラム、キーボード、ダンスへとシリーズが展開していきました。当時は、それらがヒットすることを、どこか当たり前のように感じていました。

会社では、利用者や購入者の分析が行われており、クリエイティブ一辺倒だった自分が、次第にマーケティングや経済にも興味を持つようになっていきました。また、周囲には大卒の人たちが多く、「自分は大学へ行っていなかったんだ」と、30歳を前にして改めて気づき、進学を決意しました。

むしろ、高卒で大手企業へ入社していたこと自体が、かなり珍しいケースだったのだと、その時に初めて知りました。当時の僕は、自分の得意分野以外を知らないことに、不安を感じていたのだと思います。30歳で大学へ通うのは簡単ではありませんでしたが、多くの仲間に助けられました。そして、10年間いたゲーム業界とは異なる場所で、大切な友人たちとも出会うことができました。大学進学中は、浜崎あゆみさんのリミックスや、BOAさんの作品に参加をしました。

ただ、学生になると会社員として働くことが難しくなり、自分で会社を作ることにしました。

「なぜ大手ゲーム会社を辞めるのか?」と、よく聞かれました。特別な不満があったわけではありません。ただ、組織に縛られることが苦手だったこと。そして、ヒットを出せなければ居場所を失ってしまう——そんな先輩たちの姿を見て、自分自身も怖くなっていたのだと思います。

会社を作ってから、ようやく大手企業や会社員という環境のありがたさを実感しました。優秀な人たちが集まり、開発費も潤沢で、制限はありながらも、自分の思い描いたものを形にできる。そんな恵まれた環境の価値を、皮肉にも起業後になって初めて理解しました。

もちろん、会社に守られず、経済的に自立しなければ不安になる性格でもありました。「自分ですべて稼がなければいけない」と、どこかで思い込んでいたのだと思います。今だから、そう言えます。

会社経営は決して簡単ではありませんでした。しかし、大学進学を通じて、自分の考え方も少しずつ変わっていきました。起業から5年間は、膨大な借金も抱え、本当に大変な時期でした。そんな中、iPhoneが日本で発売されると聞き、サンフランシスコへ向かいました。そして、日本での発売と同時にアプリ開発をスタートしました。

仲間たちと徹夜で「面白いもの」を作り続け、そのアプリは大ヒットしました。

エアロギター、Pianomanは2,000万ダウンロード、MatrixMusicPad1,500万ダウンロード、3作品は国内ダウンロードランキング1位を取りました。

ヒット作を連続できた。

8Bitone、Livelink、そしてスマートフォン・タブレット版の『太鼓の達人』などを手がけました。自分が制作に関わったことは公表されているので少し触れると、スマホ・タブレット版『太鼓の達人』では、楽曲を入れ替えられる仕組みを提供し、それまで培ってきた音楽ゲームのノウハウを活かして開発を行いました。相棒のプログラマーと徹夜で作業を続け、ゲームセンターの人気作品をモバイルへ移植できたことは、本当に面白い体験でした。

その合間に、2011年に制作したのが『斉藤さん』です。当時のiPhoneは、今のように高性能ではありませんでした。その中で、静止画を連続送信して動画のように見せる仕組みを作り、ユーザー同士をリアルタイムでマッチングさせていました。アマチュア無線をやっていた経験が、通信の考え方にかなり役立っていたと思います。

『斉藤さん』は、コロナ禍を経ても長く使われ続け、現在では3,000万ダウンロードにまで成長しました。。僕が作ったアプリは1億を超えていると思います。

この頃、応援してくださるファウンダーやベンチャーキャピタルの方々と出会い、多くのアドバイスや投資をいただきました。お金の不安を過度に抱えずに挑戦できたことは、本当にありがたい環境だったと思います。

一方で、自由奔放に挑戦でき、ヒットにも恵まれた会社員時代の感覚を、経験のない人たちに伝えることには苦労しました。スタートアップの「イノベーティブな挑戦」というものは、多くの人が想像する「9時から18時まで働く」という感覚とは、まったく異なります。寝る間も惜しんで試行錯誤し、事業が一気にスケールしていく。その熱量や空気感とのズレを感じながら、40代前半はかなり苦しみました。

僕は若い頃から、自分の好きなことを仕事にして生きてきました。それが生活になり、給料になり、その結果として周囲の人たちの生活も支えてきました。そして、ユーザーやファンの方々には、作品を楽しんでいただいていました。

だからこそ、自分が作った作品を好きでもないのに、表向きだけ取り繕って働く人や、陰で批判する人に対しては、とても厳しかったのだと思います。そういう場合は、徹底して辞めてもらいました。それほどの覚悟で仕事をしていましたが、当時は、その思いをうまく言葉にできませんでした。

会社の業績は順調に伸び成長していきました。しかし、毎年人を採用し、組織が大きくなるほど、逆に業績が下がっていくという現象が起きました。そんな時、あるベテラン投資家の方から、「あなたは、何のために起業したのですか?」という問いを投げかけられました。

それまで作ってきたゲームや事業と比べると、働く人たちのモチベーションがあまりにも低く感じられたのです。『斉藤さん』のようなサービスは、SNSやマッチングアプリの黎明期でもあり、「面白いけれど、よくわからない」「少し怪しい」といった社会的な見られ方もありました。前向きな情熱よりも、「なんとなく」で入社してくる人も多かったのでしょう。仕事が好きではないのに誤魔化している。誇りを持てていない。そんな状態で嘘をついて働くことを、僕はどうしても許せなかったのだと思います。

それは、自分にとって大きな人生の分岐点でした。苦しんでいたその頃、沖縄の精神科医の先生から、ある助言をいただきました。その言葉によって、自分は一気に立ち直ることになります。

「好きなことしかやらない」
「嫌なことはやらない」
「100%イエスマンでいい」

好きなことをやり、その代わり責任を持つ。そう決めてから、僕の周りにいる人も、環境も、少しずつ変わっていきました。自分たちが心から「楽しい」と思えるものを、一緒に作れる仲間だけに絞っていったのです。ここは、とても大切なことだと思っています。

沖縄で福祉施設 ドーユーラボ

沖縄に通ううちに、自分とどこか似た感覚を持つ子どもたちと出会い、発達障害児童支援に興味を持つようになりました。東京から離れた沖縄で子どもを育てる——というよりも、むしろ自分自身が学ばされることの方が多く、福祉業界で組織を作ることの難しさや面白さを経験しました。

僕はずっと、自分は「オタク」だと思っていました。ただ、作ることは大好きなのに、アニメやゲームそのものを楽しむことはあまり得意ではなく、いわゆる一般的なオタク文化には、どこか馴染めなかったのです。発達特性には、ASD傾向とADHD傾向がありますが、自分は後者のタイプなのだと、後になって理解しました。

振り返れば、長年一緒に仕事をしてきた人たちの中には、ASD傾向の強い人も多くいました。想像力や発想力で突き進むというより、計画的で保守的な思考を持つ人たちです。そうした人たちとの関係性の中で、自分自身も多くの影響を受けていたのだと思います。

実際、会社にいた社員が、退職する際に「発達障害の診断を受けていました」と打ち明けてくれることも、何度もありました。不注意が強く、トラブルを起こしやすい人もいました。そのたびに、会社に関わっていた医師や心理士の方々が、「おそらく特性による凸凹があるのだろう」と教えてくれました。精神的な悩みや発達特性は、本人にとって非常に伝えづらいものです。だからこそ、大きな問題が起きた時や、退職するタイミングで、初めて打ち明けてくれることが多かったのだと思います。

気づけば、自分の周囲には、発達特性を持つ人が本当に多くいました。「自分に気づかれないように」と思っている人もいたでしょうし、ある意味では、自分自身がそういう人たちを引き寄せていたのかもしれません。この経験は、ドーユーラボでの活動にとても役立ちました。

自分とは異なるASDタイプの人たちについて理解が深まり、同時に、自分自身がADHD傾向を持っていることへの自覚も強くなっていきました。ベンチャー企業のように、新しいことを切り開き続ける環境は、ASDタイプの人にとっては、少し負荷が高い場合もあります。一方で、ADHDタイプは、変化や偶発性の中で力を発揮しやすい面もあります。

もちろん、どちらが優れているという話ではなく、特性の違いなのだと思います。コロナ禍では、施設の職員も子どもたちも、思うように施設へ来られない日々が続きました。

沖縄の人たちとの出会い。子供たちも、子供の頃の自分のようで、おじさんとして、彼らの後ろにまわっていこうと、心が変わっていきました。2014年から沖縄に通い続けて、2018年に那覇市に住まいを借りて移住しました。沖縄の仲間たちと、児童の支援をするために、沖縄市、那覇市、浦添市に施設を開設しました。

コロナ禍では、施設の職員も子どもたちも、思うように施設へ来られない日々が続きました。僕は沖縄北部のやんばるに広い家を借り、ほとんど誰とも会わずに暮らしていました。コンピュータと、通販で買ったキーボードだけを相手に、作曲やトラック制作を続けていました。その期間、たくさんのことを考えました。

変えられない時間の流れ。偶発性。運命。そして、人間の内面について。

ミシェル・フーコー を読み続けながら、自分の心の奥深くにある感情や思考を探っていました。簡単に言えば、「心の根っこ」は、人によってまったく違うのだということです。あたり前のことですが、人は、自分とは違う。けれど、その違いを本当に理解することは、簡単ではないのだと思いました。

すきなことしかやらない。

コロナ禍では、数か月間、沖縄県の国頭村でひとり暮らしをしていました。

かろうじてインターネットが通じる環境の中、通販で楽器を購入し、アマチュア無線機などの趣味の道具も持ち込み、自給自足のような生活をしていました。当時は、「コロナに感染したら死ぬかもしれない」という空気が本当に強く、自分の中でも、「たとえ人類最後の一人になっても、生き残るぞ」という感覚がどこかにありました。

幸い、車を持ってきていたので、やんばる地域にある昔ながらの共同売店や道の駅を回り、地元の野菜を買って自炊をしていました。たまに那覇まで南下して、仲間たちと会うこともありました。ひとりの生活では、望遠鏡で星を眺め、音楽を作り、静かに時間を過ごしていました。

その頃、「自分は一人でも生きていけるのかもしれない」と思いました。そして同時に、「人は結局、一人で死んでいくのだな」とも感じました。

40代後半になると、子どもの頃に抱いていた問いが、再び自分の中に現れてきました。

「なぜ自分は今、生きているのか」
「生きている自分を証明できるものは何か」
「この世界とは何なのか」

そんな根源的な問いです。

西洋なら哲学、アジアなら禅や仏教の世界があります。鈴木大拙 の本も読みましたし、さまざまな思想や文学にも触れました。それでも、「これだ」という答えは、結局わかりませんでした。作家たちの晩年の作品を読み、「彼らは人生の終わりに、どんな心境だったのだろう」と考えることもありました。

そんな中で、亡くなる直前の 石原慎太郎 の本を読んだ時、「死ぬことは怖いことだ」という言葉が、とても印象に残りました。でも、逆に言えば、「死ぬのが怖い」ということは、「今、生きていることを良いと思えている」ということなのかもしれない。人生に、どこか満足しているからこそ、失うことが怖いのだと。

そこだけは、少し理解できた気がしました。結局、人間にとって大切なのは、「今を豊かに生きること」

沖縄での経験を通じて、組織づくりもうまく回るようになり、良い仕事をしながら、大変さも楽しさも経験し、それが自分自身の自信にもつながっていきました。東京の仲間も、沖縄の仲間も、「任せられる」と思える存在になっていきました。他の地域への展開も考えましたが、相性の悪い人や、嫌だと思う人と無理に組むくらいなら、やらない。そのくらいの覚悟を持つようになりました。

仕事というのは、結局チームワークであり、自分は監督のような立場なのだと思います。

そして、ある時から、

「もうこれでいい」
「やりたいことは、だいたいやった」
「あとは任せよう」

そう思えるようになりました。

これまでずっと全力で走り続けてきたからこそ、これからは、一日一日を大切に生きたい。

自分の子どもたちも、もう大人になりましたしね。

これから

そろそろ、じっくり、ゆっくり生きよう、仕事は楽しいことしかやらない、50歳をすぎて思っています。

いまでは、自分のために好きな音楽を作ったりしています。

沖縄には、子供の頃から続く、アマチュア無線の設備があり、アフリカやブラジルなどのローカルラジオ局を電波経由で聴いて、ハイレゾの最高音質で、世界どこにいても聞ける、マニアックなものを作っています。洗濯物干しをアンテナにしているのですが、東京にいても、飛行機に乗っていても、アンテナから、ハイレゾ音質のラジオを聴くことができます。

自転車も作っていましたが、ヘルニアで、乗れないのが残念です。

また、仕事場として、古い家をリノベーションをしています。

今は、少人数で古くからの仲間と、優しく、ゆっくりやっていて、リタイヤしています。