プロフィール、自己紹介です。
僕は、南雲玲生って名前です。昔、有名だった頃の残りがあり、人に会うたびに、wiki見ましたと言われると、誰が書いてるのかな?と。
知らない人に書かれてしまうのも不思議なので、訂正も含めて、将来、万が一僕が死んでしまったときのためにも、まとめておきます。
考えることが好きです、アイデアで生きてきた人です。
沖縄在住で、ドーユーラボという児童支援・福祉施設を開設をして、のんびり生活しています。昔は、なんでも興味をもってしまい、いろいろやってきました。
1980年、小学生のころ、坂本龍一さんや、YellowMagicOrchestraが大好きで、シンセサイザーやコンピュータに目覚めました。
ラジオを聴いているうちに、海外短波放送に興味を持ち、ハンダゴテを持って、受信機をつくりました。親戚が電気屋さんだったので、日立のマイコンに触れることができました。マイコンに簡単なシンセサイザーの部品を繋げて、音楽をつくっていました。
当時の8Bitのマイコンで、BASICのプログラムができたので、中学生になるとゲームを作っていました。覚えていないのですが、某メーカーのプログラムコンテストで賞をいただいて、賞品で学校にパソコンが届いたそうです。昭和の時代「ゲームは不良!」だったので、残念ながら、無かったことになったようです。
高校生から作曲をしはじめました。Appleが好きで、MacのラジオCMの音楽を作曲しました。きっかけで、コマーシャルの音楽を作りました。当時の音楽業界の体育会系な現場のノリは苦手で、辞めまくりました。
1996年にゲーム会社に入社しました。ゲームの音楽を作ったことがきっかけで、ゲームの企画を考えるようになりました。音楽ゲームを作りました。音楽ゲームのジャンルはなかったようです。
20代から30代 趣味をしごとにしていた。
会社や組織にしばられるのが嫌だったので、引き続き、プレステを作っている会社で、ゲームを開発する仕事をさせていただきながら、著名アーティストや、CMの音楽をつくっていました。
僕は、社会人になって、嫌な会社や嫌な人がいると、脱走するようにすぐ辞めて、楽しかったり、面白かったら夢中になって仕事をしていました。20代前半に、開発をしたビーマニによって、DJゲームから、ギター、ドラム、キーボード、ダンスなど展開をしていって、ヒットをすることが当たり前と思っていました。
会社では、利用者や購入者など分析をして、販売の統計を取っており、当時の僕から見れば、クリエイティブの頭から、マーケティング・経済に興味を持ったことと、周囲は大卒の人たちばかりだったので、30歳をまえに、大学に行っていないことに気づき、進学をしました。むしろ、高卒で大手企業に入社したことは、かなりのレアケースだったと、この時に知りました。
当時は、自分の得意以外のことを、知らないと不安だったのです。30歳で大学に行くことは大変でしたが、仲間に助けられました。10年働いていたゲーム業界ではない、大切な友人とたくさん出会いました。
学生は会社で働けないので、会社を作りました。
なぜ「大手のゲーム会社」を、辞めるのか?と言われました。特に不満があるわけでもなかったのですが、縛られることが嫌だったことと、ヒットを出さなかったらクビになるだろう。そんな先輩を見ていて、自分も怖くなったのです。
会社を作ってから、ようやく、大手企業、会社員のありがたさをしります。優秀な人がたくさんいて、開発費など潤沢で、制限はあるものの、思ったものを作れたこと。良い環境で、自分の思いで良いものが作れる喜びを、残念ながら起業後にわかりました。
もちろん、会社に守られず、経済的に自立をしないと不安になる性格は、自分ですべて稼がなくてはいけない。なんて、思ったのでしょう。今だから言えます。
会社経営は大変でしたが、大学進学によって、考え方が変わっていきました。起業5年は、膨大な借金もあり、大変だったのですが、iPhoneが日本で発売されることをきいて、サンフランシスコへ向かい、国内販売と同時に、アプリ開発を行いました。仲間と徹夜で面白いアプリを作って、大ヒットしました。
ということで、20代から30代のプロフィールは、1997年ビーマニを開発、2003年大学進学をして、起業ってわけです。
大学進学中は、浜崎あゆみさんのリミックスや、BOAさんの作品に参加をしました。
2008年にサンフランシスコ(シリコンバレー)へ向かい、エアロギター、Pianomanは2,000万ダウンロード、MatrixMusicPad1,500万ダウンロード、3作品は国内ダウンロードランキング1位を取りました。
ヒット作を連続できた。
8Bitone、Livelink、タブレットやスマホ版の太鼓の達人を作りました。僕が作ったことは、公表されたので、ちょっと伝えると、太鼓の達人のスマホ・タブレット版は、楽曲の入れ替えができる仕組みを、提供して、音ゲーのノウハウで開発をしました。相棒のプログラマと徹夜で開発して、ゲームセンターのヒット作を移植できて、面白かったです。
その合間に、2011年につくった斉藤さんですが、当時のiPhoneですから、画像を連続して動画を配信する仕組みを作り、マッチングさせることは、アマチュア無線の経験もありました。いまでも、コロナ禍にしぶとく・・・今では3,000万ダウンロードになっています。
このころ、応援してくださるファウンダーや、VentureCapitalと出会ったことで、たくさんのアドバイスをいただき、お金に心配せずにチャレンジができました。自由奔放で、ヒットに恵まれた、会社員時代の恵まれた環境を、経験がない人に伝えることができずにおりました。
スタートアップでインベーティブなチャレンジ・・・・。多くの人は、9時から18時までの仕事の範囲の認識であり、寝ないで、事業が大きくスケールをもつ。
そのズレを感じながら、40代前半は苦労しました。
僕は、若い頃から自分が好きな仕事をしてきて、ご飯にしており、給料にもなりました。それによって、周囲の人は、生活ができています。ファンの方や使っている人は、楽しんでいただいています。
自分が作った作品を好きじゃないのに、嘘をついて働いている人、陰で批判をする人もいて、 その場合は、徹底してやめていただきました。そのくらい、覚悟をしましたが、当時は伝えられませんでした。
業績は軌道に乗り、大手の受注や下請けで、数億の売上げに成長していきましたが、毎年、人を採用して組織が出来上がってくると、業績が下がり・・・・。ベテランの投資家の方に「何のために起業したのですか?」のクエスチョンをいただきました。
これまで作ってきたゲームや、事業と比べれば、働く人のモチベーションが相当低い。『斉藤さん』など、SNSやマッチングアプリの黎明期ですから、たのしいけれども、よくわからない、社会的な存在もあり、前向きではないのに入社する人が多かったのでしょう。仕事が好きではないのに、誤魔化している。誇りを持てない。そんな心で嘘をついている人を僕は許せなかったのでしょう。
僕にとって、人生の分岐点でした。この苦しい時、沖縄の精神科医の先生の指南で、一気に立ち直ることになります。
「好きなことしかやらない」「嫌なことはやらない」「100%イエスマン」でよい。好きなことをやり、責任を持つとして、ゆるやかに、僕の周りの人も、環境も徐々にかわっていきました。
心から、自分たちが作るものを楽しいと思える仲間だけに、絞り込んでいきました。
ここは大切ですなのですが、会社組織のコアメンバー20人までは、100%服従です。超えたら、議会政治に変えていきましょう。
沖縄で福祉施設 ドーユーラボ
沖縄に通ううちに、自分のような子供たちにであったことで、発達障害児童支援に興味を持ちました。東京から離れた沖縄で、子供を育てる・・・というよりも、学ぶことが多く、福祉業界で組織を作ること、面白さを経験しました。
僕は、オタクだと思っていましたが、作ることは好きだけれども、アニメやゲームで遊ぶことは得意ではなくて、一般的なオタクとはうまくやれなかったのです。発達障害には、ASD(アスペルガー)系と、ADHD系があり、僕は後者であることがわかりました。長年、ASD系の人たちに囲まれており、想像や発想といったことよりも、計画的で保守的で、ASD(積極奇異型の人による共依存)であったと、わかりました。
会社にいた社員も、退社時に、発達障害の診断を受けていることを教えてくれること、何度も経験し、不注意がひどく、トラブルを起こす人もいて、その度に、会社をみた医師や心理士が、凸凹であろう状況を教えてくれました。精神疾患て伝えづらいから、大きな問題や、辞める際にカミングアウトしてくれるのです。
こんなに発達障害は周囲に多い、僕にバレないようにと思っている人もいるし、引き寄せているのだと。
ドーユーラボで、この経験がとても役に立ちました。自分とは異なる、ASDタイプのの人について、理解ができてきましたし、ADHDなのだと自覚も増しました。ベンチャーのように切り開き、新規事業の連続は、ASDの人は少々難しいです。
沖縄の人たちとの出会い。子供たちも、子供の頃の自分のようで、おじさんとして、彼らの後ろにまわっていこうと、心が変わっていきました。2014年から沖縄に通い続けて、2018年に那覇市に住まいを借りて移住しました。沖縄の仲間たちと、児童の支援をするために、沖縄市、那覇市、浦添市に施設を開設しました。
コロナ禍は施設の職員も、子供たちも施設に向かえない日々。
僕は、沖縄北部のやんばるに広い家を借りて、誰とも会わずに生活しました。コンピュータと通販で購入したキーボードで作曲やトラック作りをしていました。
この期間で、深く考え、変えられない時間、偶発性のあること。運命。ミシェルフーコーを読みまくりました。心構えは、心の奥深い思いや気持ちを探ることでした。簡単に伝えると、心の根っこは人によって違うのですね。当たり前ですが、自分とは異なります。
すきなことしかやらない。
コロナで数ヶ月、1人で沖縄の国頭村で生活しました。かろうじてネットが通じることと、通販で、楽器を購入して、アマチュア無線機など趣味の道具も持っていき、生活しました。当時は、コロナで感染したら死ぬ。自分は最後の人類最後の1人になっても、生き残るぞと思いました。
幸いなことに、車ももってきていたので、やんばるエリアにある、コンビニのような伝統的な共同売店や、道の駅で現地の野菜を仕入れて、自炊生活をしました。たまに、那覇へ南下して、みんなに会いました。
1人の生活は、望遠鏡で天体観測をして、音楽を作ってのんびりできました。僕は1人で生きれると思いました。死ぬ時も1人だなと。
40代後半になると、子供の頃に、なぜ今いきているのか。生きている自分を、証明できるのは何か?この世の中って何か?といった問いが、今の自分にもあることに気づきました。
西洋だと、哲学。アジアだと、禅や仏教の世界で、鈴木大拙を読んでも、何を学んでもわかりません。作家の晩年の作品を読んで、心はどうだったのか?読んでみたりしました。
亡くなる直前の石原慎太郎の本を読んで、死ぬことは怖いことだ。そのように思いました。死ぬのが怖いということは、今生きていることが、良いと思っているからだ。満足しているのだ。それだけはわかりました。
結局、今を豊かに生きること、ウエルビーイングなのでしょう。
沖縄の経験は、組織づくりがなんとかうまくできて、良い仕事で、大変で、楽しくて、自分への自信につながりました。東京も、沖縄の仲間も頼もしくお任せができるようになりました。お任せができる仲間でないと、仕事はしない。ぐらいに思っています。
他の地域にも進出をしようとしましたが、嫌な人、相性が悪ければ、やらないと覚悟しました。
そのくらいチームワークで監督業なのですが、
もうこれでよい!、やりたいことはやった。あとは、任せようと区切りをつけました。幸い、若い頃からやってきた仕事のおかげで、これから生きていくための糧はあるので、若い人、周りの人が困らないよう最低限マネジメントをする。
今まで全開だったから、1日大事に生きよう。自分の子供も大人になりましたしね。
これから
僕は、音楽の作曲やゲームクリエイター、アプリ、家づくり、車、自転車、健康・・・・、そして福祉施設の開設と、海外、沖縄や東京など数カ所の住まいがあり、行動は多動でADHDです。
過集中の力によって、何かを作ったり、会社をやったり、児童施設を開設をしたり、やりたいことは、何でもやってきましたし、何でもできると思ってきました。
同じことをやることが、苦手なので、若い頃から働いて、稼いだり、いただいたお金で老後まで、そろそろ、じっくり、ゆっくり生きよう、仕事は楽しいことしかやらない、50歳をすぎて思っています。
いまでは、自分のために好きな音楽を作ったりしています。
沖縄には、子供の頃から続く、アマチュア無線の設備があり、アフリカやブラジルなどのローカルラジオ局を電波経由で聴いて、ハイレゾの最高音質で、世界どこにいても聞ける、マニアックなものを作っています。洗濯物干しをアンテナにしているのですが、東京にいても、飛行機に乗っていても、アンテナから、ハイレゾ音質のラジオを聴くことができます。
自転車も作っていましたが、ヘルニアで、乗れないのが残念です。
また、仕事場として、古い家をリノベーションをしています。
・・・といいつつ、アプリ開発をしています。海外にもかなり渡航をしています。沖縄と神奈川と東京に加えて、ロンドンに住みたいと思っています。
これからのミッションは、心や意識を統制して、オプティマイズできる、ウエルネスシステムとか、日本ではあまり知られていないでしょう。その次に、生涯の終着地は、自分が作った老人ホームに入りたいです。
今は、少人数で古くからの仲間と、優しく、ゆっくりやっていて、リタイヤしている感じなので、人のつながりも、仕事も増やしたくないです。ということで、若い頃は無茶して働いていたので、お許しいただきたいと思います。