遠くの村、そして、小高い丘の上は
映画のシーンのようで、なにか大きな節目になるのだなと思いました。
3日間、17時から24時まで。
先生とボクは、一対一でお話をして
過去から今へ、自分のことを考察した。
でも、この時間は、過集中なのか、とても失礼だけれども、
面白くて
過去の様々な起きたイベント思い出して、
正直な気持ちや衝動も気がつき
ホテルに戻ると、ぐったりして、寝る。
朝起きて、ジムで運動しての繰り返しでした。
「午後に虚脱というか、集中力が切れること」の原因
と、
「発達障害であることへの疑問」
番組の密着取材があったけれども、本当に自分が該当するのか確かめたかったのだ。
発達障害のふりをしていて、実はたいしたことはないんじゃない?
楽してるのでは
って疑心暗鬼だったので、きちんと考えることにした。
そこで、この3日間をメモということで、かなり、割愛をして、
とりとめも無くダラダラ書く。
多くのヒト(以後、多数派と定義)とは、脳の思考が全く
異なることがわかった。
これまで受けてきたWAIS-3という、知能検査も徹底して細かく分析。
各項目のアップダウンが大きいことの意味、項目間の関係など
細かく教えていただいた。
発達障害であることは間違いない。
判定は難しいし、混ざっているが、
先生は、アスペルガー症候群というよりも、ADHDであると仰られた、
注意欠陥が多くて、
手続きや書類を必ず間違える。
また、読んでいる方はお気づきだと思いますが、
メールもこのブログも、SNSも
ボクは、文章を見直さないので、修正しないし、間違いが多い。
けれども、気にしない。
少々のミスは意味が伝わるから、直す方が非効率である
なんて、、屁理屈ともとれるのでしょうね。
業務においては、もともと事務処理はやらないし、
他の者がやってくれるし、最近は、秘書によるサポートがある。
だからこそ、今まで気がつかなかった。
子供の頃、うっかりミスや
ヘンテコな間違いが多かったのも、思い出した。
まちがった、二重否定や強調だとか、いまだにあるし。
また、語彙や知識は、並外れて多いが
問題があり、適切ではなかったりして、
確かに、雑学や知識、哲学的な思考などアスペルガー的な
嫌らしさはある。
以前、IT系の本を書いた時に、
皮肉のように、校正で嫌味を言われて、本当に”嫌”になったことがある。
たぶん、伝えたいことが良くわからなかったので
知識やインテリ自慢が見えて
担当者が、ブチ切れたのかもしれない。
ボクにも、伝わった。
これは、ボクの事前説明(書)が必要だ。
アスペルガーとADHDの定義について
ADHDでも様々な種類がある。
2回のIQのデータは明らかに、多くの人とは異なる発達障害なのですが、
さらに細かい
分類分けというのは、WAIS-3の検査項目を見極めて
数か所で意味は変わってくる、判定は難しいらしい。
心理士でも難度が高いそうだ。
ボクは、治る薬もないし、
「学習をすれば、何とかなる」と思い込んでいたことは、
逆効果で
「そもそも異なるので、学んで、記録して、推測して」
という、「努力」すれば、「頑張れば」
何とかなる思考そのものが、さらに
「発達障害を疑い」 「パーソナリティ障害ではないか?」
という、自己評価が低く、
誰かに認められる、許してもらおう的な
AC(アダルトチルドレン)のADHDであり、
多くの人とは違うということを深く理解。
アスペルガーが強ければ、自己評価は高い。
疑わないから、自分では分からないと、、、
また、通常、生涯においてIQは変動しないけれども、
発達障害がわかった1回目と2回目で
特性は一緒だけれども、知能指数が大幅に向上した。
「努力をすると許される」と思うことが
子供のころからあって、大変だけれども、
それでIQが高いのかもしれない。
相当努力している、とのことだが
それがボク自身ということであるならば、ボクには分からない。
何故ならば、ボクだから。
先述の注意欠陥を今まで気づかなかったけれども、
気づくようになり、それで嫌な気持ちになる。
そのくらい気にしているのに、
多数派の観点から、矛盾しているということであれば、
(自分の発達障害)を言ってしまって
良いのですか?
と必死に質問を受けることがある。
本当のことだから、その通りって答える。
ボクは、質問の本質が、全くよくわからない。
毎度面倒くさい。
こういう心配は無いですか?
説明を聞いても、で、だから?ってことになる。
ボクは、多数派の同調(意識・圧力)と、それから逸脱することがが全く分からない。
もともと、逸脱しているからなのだ。
笑うしか無い。
そのことが、すでに発達障害なのだ、というか、そう”らしい”
多くの人は、そのようなことを言ってしまったら
社会から外れるような、恐怖がある。
ボクからすれば、仮想現実である、
多数派は場の空気、人の顔を見て話す、同調こそ社会への帰属である。
Facebookで意味の無いイデオロギーの議論や
ワイドショウの延長のような、時間浪費なくだらない書き込み
が理解出来た。
けれども、ボクは、今までうまく行っていたわけで
空気はいらなかったりする。
周りも、ボクとの関係性によっては、
「それほどでもないですよね(強さが)」
というので、そのまま 真に受けて
期待に応えている、けれども、
そもそも、多くの人は本当のことは言えない
っていうことなので、それは、少数派に取ってはウソであり
気休めでもなんでもない。
「強いので深刻ですよ」の方が、心に響くので
ありがたいんだけれど。
ということで、
ここ数年、多くの人、多数派の人に
うまく適合をしたふりをして、実は、全然適合していない
自分の思考があり
その表層的な面は、期待に応える、良い子で
本心は、先読みをして、
バカヤローとか、絶好とか考えていて
嫌な奴だなと。
特に、利用されたりすると、気づきながら、もうねって思う。
正直に、
「ガンガン遠慮しないで本当のことを言えばよいんですよ!」
って、言われたことを、記録につけたことがあって、
本当のことは読めますよ、とも
いろいろ意味があることを理解した。
つまり、よいこと”だけ”考えれば
「多数派は、ボクのことをすでに読んでいるので」
グダグダいっても、どうせわかってるんだ
とも解釈ができる。一つの意味。
なるほど。
様々なケースを引き出して、それを分析して理解できた。
けれども、そのこと自体は、永久に理解はできない。
理解できても、多くの人は、「考えない」 でやっていることを
ボクは、「考えて」いる。
逆に、多くの人は「考えている繊細さ」
を
「考えていない」
だから、アイデアや皮肉でシュールなギャグが普通に出たりする。
人によっては、面白くて、天然ぼけで
人によっては、怒りだす。
斜めに、人々を動物のように、群れでみることもある。
また、思考力が高いのは、
様々な事象を頭で理解しようとした結果、
成長と言う意味で伸びたわけだけれども
結果、理屈っぽくなった。
しかし、多数派の考えないで場を見る速度は、
ボクの思考する速度では追い付けない。
そもそも、全てのことに結果や結論を求める事自体
おかしいのだと。
自分を過信していたともとれる。
考える速度は異様に速く、加速して、疲れる。
疲れると、落ち込む(うつ)よりも、高圧的になる。
イライラする。
認知の意味でも、
いろいろな事例(ケース)をもとに、
先生と一緒に、多数派の「考えないで」している行動を
理屈っぽく、鑑みた。
理解をするのに、1日かかったけれども
結論としては、これでは損だ、と言うことになった。
上っ面だけの調和
「うまくやろう」っていうことそのもの、
無駄なことを、損しているんだ。
ということになった、
聞くと、
現実に不適合をおこしながら
気づいていない、そういうAC的な人が多いらしい、
ボクは、啓蒙したいぐらい思った。
まあ、これは、中心的なADHDなことだ。
mentaをやったのも、結局だったりする。
もともとの、本当の資質自体
ボクは中心的でジャイアンのようなADHDであり、
牙をむいていて、それは恐ろしいことなのだ。
暴れれば、許される、
ゴネれば改善するという成功パターンを
持ってしまっていて、それは厄介だったりする。
子供のころ、最終的には、
いじめられても、キオクが飛んで殴り返して
回避したことがあった。
世の中的にはいけないことでしょうけれども、
そういう、暴れん坊な気質なのに、
いい子ぶっているんだな、その両方を行き来している。
そんな、自己評価が高くて
都合が悪くなると、低くするボクは、
波瀾万丈でも、
社会活動ができて、
順調でいて、ボクは、会社を休んで、任せて、のんびりと
遠くの、遠くに来ているなと。
ぴったりな”参謀”っていうのは、すごい
奇遇な組み合わせなのだ。
この参謀にも、気質がある。
最近、秘書的な機能を設けたのは、外部をシャットアウトしたのは、
良かったのかもしれない。
暴君のような本質も
一方で子供のころから甘やかされて育ち
何でも、チャレンジして、買ってもらって
遊び、学び、
好きなこと、興味のあることは徹底して
その結果、自分の理想とする仕事をして
経済活動をおこない、それが、雇用につながり
周りの人に合わせてもらった、支えてもらった
という全く、偶然の図式。
その、暴君というべき、本質的なADHDの能力で
若いころは、音楽や、ゲームで生計を立てて、
今では、余計なことを考えず、徹底して何かを作ったり、事業を立ち上げる
俊足な力だったのだ。
開発も”リーンスタートアップ”
なんて言っているが、ボクの中では
言い訳に過ぎなくて、手法は
ボクの性格そのもので
短期戦にPDCAをまわして、異常な集中と処理ができるもので、
その衝動が面白いんだなと。
そうすると、周りは、何も言えず、
なんか、凄いって圧倒されて、ついてくるしかない。
演技ではない、本物の演技だったと、言われた。
先生は、大竹しのぶ 現象だと。
ボクは理解出来た。
考える速度と集中とその記憶(一夜漬け)
はだれにも負けないけれども、のめり込み
周りは圧倒されて、ついていくしかない。
けれども、長期戦は無理。
そして、根拠のないことを根拠のあるように見せて
うまくいったり、いかなかったり。
うまくいったことの方が多いので、今があるわけでして、
多数派の理論にしがみつかないと、不安
ということはなくて、
多数派の同調意識ゆえに
新しいニーズや問題を見分けることは、ボクの方が強くて
でも、AC的な意味で
既存の理論にしがみつくわけで、
それを打破するために、
もっと次の理論武装をして、徹底的に論破する
ってこともわかった。
ボクは、経済や経営の側面もあるので、
よくある例として、
サービスを進める際、
多数派の理論武装の例として、マーケティングがある。
誰もが、消費者のニーズをつかんだり、商品を適切に出すために
行動経済学やら、最近では神経経済学だとか、持ち出す。
もちろん、面白いけれども、セオリー通りには成功しない。
一筋縄にはいかない。
そのようなことを多数派も分かっているのに、
理由をつけようとする。
なので、存在論の無は、恐怖なのだと察する。
現象学で言う、フッサールの「志向的非存在」だと考える。
目に見えるものは、実際の目に見える知覚のメタにすぎなくて
人々の集中は、目に見えない、妄想や想像に”あること”に集中する。
その”あること”は、言語化できないけれども、
時代の声や時代の共感覚とボクは考えている。
よって、デザイナーでも、ミュージシャンでも
目に見える、聞くことの情報を親切丁寧に書いて
UIが選択肢だらけ、音の詰め込みすぎ、だったり、
プレゼンで、合議制でたくさんの意見を取り込み
見た目の情報量を増やしていると、
クリエイティブを捨てた詐欺師ぐらいに考えている。
多数派は、有や存在において、
全てを成立させようとしている(ように見える)
量的に、知の拡大で選択肢を増やす努力をするだけの人がいる。
これは、ボクに会うと
「勉強になりました」って帰る人なのだけれども、
メソッドを確立していなければ、何も決めれない。
けれども、多数派はこれでよいのだ。
物質的に存在しない
現象について学んで、論破していこうと考えている。
イロイロわかったところで、
早速衝動的に動こうとする癖が出てきまして、
なんか、攻めますか。
って気持ちになり、まずいので、
週末冷静に頭を冷やそうと。
ってことになった。
それでも、結局
毎日同じように 海があるのに、スポーツジムで運動して
お菓子がご飯だけれども。。。
最後に、AC的な守りで補足をすると
ボクは専門家でもないので、
自分の考えを「とりとめもなく」伝えただけで
この考えが、正しいとか、間違いとか、そういった指摘は受けません。
専門家じゃないし、そのようなことは、もはやどうでもよいのです!