最近、鉄道オタクとか、車オタクとか、
ボクも、自分のことを言いますけれども、
とても夢中になって、深めてしまうことですよね。
「オタク」がとてもカジュアルになりすぎていて
だれでも、自分を象徴する、
代名詞のような、誰でも使える
プロフィールになっているかなと思います。
リアル充実(リ充)⇔オタク(ネクラ)
の対比ではなくて、
オタク=コミュニケーション能力の高い
好きなこと、夢中なことが多くて、
人に伝えよう、情報交換が楽しい
ってことになっています。
でも、最近気になるのは、
・オタクにも属せない人 でして
何か、自分を喪失しているというのか、
普通の人(と思っている)
自分が怖い時代ではないかと考えています。
自分に、何か特殊な個性であったり、
何か、特技がないといけないような。
特技がなくても、コミュニケーション能力が高ければ
「特に好きなモノも、勉強も嫌いだけれども
酒飲むのが好きでね」なんて、話が盛り上がれる
コミュニケーションに比重を置けるならば
よいのですが、
何も夢中になるわけでもなく、
なんとなく、好きだったから、
さほど夢中になるわけでなく
なんとなく、自分探しをするような。
もし、コミュニケーションスキルが高くて、
他者と自分の関係、距離がきちんとつかめていれば
相手からの承認によって、自分が確立できる。
それができれば、
猛烈な個性がなくても、相手との調和で
おたがい、駆け引きやキャッチボールで
自分が確立できる。
また、自分に技術、個性、能力があれば
情報の等価交換ができなくても、
他者が自分にひきつけられる。
だから、コミュニケーションスキルが低くても
自己の存在が確立できる。
じゃあ、
何も「自分に無い」としたらどうするのだろうって。
自分に無くて、他者との関係性も難しければ。
そうすると、自分に何かしら個性を
つけたくなるのではないかと。
多数派にとっては、困ったことでも。
メンヘルです、とか、リストカッターですとか。
人を困らせる、ってことよりも、
そのことで、無個性な自分を確立できる。
こんな(ボクでも)、
何か、あまり人に言うべきではない、
その人の秘密をわりと普通に話してもらうことがあって
”そのこと”ではなくて、”そのことを他者伝えられる”
時代になっているなって驚くことがあるのですが、
え、そんなことを人に言ってよいのか?
って驚くこともある。
(さらに、ボクも、若い時の、最悪でひどい話をすると、周囲はドン引きするのですが)
だから、ちょっと、一般的には
言えないことを普通に
自分について、話す人というのは、
その特殊性、病的なこと、風変わりなことを伝えないと
相手に理解や、存在を認められる
自分に自信がないのかなと、考えたりします。
ということで、
オタクがリア中であったり、コミュニケーション力が高いことになると
それから外れた人、というのは、
かなり難しくて、不適合になってしまうのではと。
自分の言動が相手にどうみられるのか。
とか。。。想像、わからない人。
この場合、挫折をして、苦しみ
嫌でも、村社会なり、他者の存在を認めて、
他者から見た自分を確立するトレーニングをしなくてはいけない。
自分の言動が相手にどうみられるのか。
ということそのものをわからない自分を自覚する。
それでも良いと思う。
なんとなく、取り留めもなく。