ここ数年、人との距離感について
考えることが多い。
かつて、ゲームを開発をしていた時期もあり
当時のファンは、南雲を知っている。
ネットも含めて、南雲に対して予備知識が多いことから
会話をすると、短期間で、距離が相手にとって近くなる。
自分はそれでも遠いのだけれども、
ファンサービスとしては、自分の作品に対する
作品に対する想いが伝わっている嬉しさだ。
もちろん、当時はそのようなことを考えてはいない。
この時期の癖がある。
取引先も、予算を持っていそうな自分に
集まってきた。良い人も、悪い人も。
あなたのことを知っていますって。
自分は、駆け引きが嫌いなので、
貸し借りの等価交換を求めていない。
利用されている、とか
利用されていないとか、そのように思わないことは
親に感謝かもしれない。
だから、本当に真摯に付き合ってくれた人は
数は少ないけれども、いまでも
大切にしていただいて、長い関係だ。
その方々は、若い時の自分を知っている、
年上の方である。
信頼がないのに、距離を近づける人というのは
相手にとって責任を考えない人が多くて
繊細ではないことが多い。
そして、信頼関係がないのに、
ネット上であらかじめ想定していた南雲像と違うと
一気に批判的になるのではないかとも考えている。
自分は、かなり合理的でドライだと考えている。
先日も、よく知らない人から連絡があり
とある企業と打ち合わせをして欲しいということであった。
彼が社会的にきちんとした立場であることもあり、
事前の調整や準備の上での連絡ではないか。
自分に連絡を取る人に対して
不義理にしてはいけない。そのように考えた。
その先の企業担当者は
自分のことを何も知らず、双方で何か違う雰囲気となった。
その時間を何か埋めつつも、
横浜まで来たことだし、何かネタでも、繋げることでも、と
考えることで必死であった。
自分にも問題があって
かつてのクリエイター(アーティスト)モードでいる自分と
経営者モードの自分が2つあり
前者から後者に転換する場合は、ほぼトラブルになるのだ。
アーティストやクリエイターと飲んだり交流する際に
後者だと、ドン引きになる。
一方で、後者の場合は、
経済合理性のないクリエイターとは話せない。
夢物語では事業は進まない。
その折衷案はない。理念が異なるから。
最近、ネットによって
表層的に人との距離感が近かったりして、勘違いが多い気がする。
信頼に対する意味がわからない
社会経験の少ないものと、
相手を想いやることができるもの
不一致だ。
自分が使う言葉や単語が
相手にとって、どのように感じて、受け止められるか
怖いから、謙虚に話す。
あるいは、様子を見ながら、徐々に
相手の都合に合わせて
距離を近づけていく。
有名人が、何か発言をして炎上した。
その人の本当のパーソナリティや、背景を知らずに
ただただ、そのネット上の文章を見て、
行間程度の推測しかつかめず、見ず知らずの人が突っ込む。
これは、言語依存が高すぎるのだ。
正誤に関わらず、セッティングが重要で
素性の知らない人から、相手の都合もわからなく
ツッコミが入っても
その有名人は、その人に返事をするのが難しい。
素性の知らない人は、その有名人を知っている(と思い込んでいる。)
このように考えると、
相手から受け取る情報は、
言語だけでなく、表情から伝わる強さ、強弱など
本来複合的であるのに
言語にあまりにも依存がする人々が増えている。
それもわかる気もする。
散文でした。