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今年、父親が亡くなったのだけれども、なにか気持ちもまとまらないまま半年が過ぎた。親しい人をなくす経験が乏しいから、どうなのか分からずにいたのだけれども、僕ぐらいの年齢の父の思い出が、フラッシュバックになることが増えた。

僕の息子も、もうすぐ20歳になり、遠くで誰かに似ているなと思えば、僕であり、それはそうなのだけれども、父と自分のことを振り返ることが増えた。

昔、アルバイトへ行く僕と一緒に父は電車の乗って、お弁当を食べて、アルバイト先に行ったこと、わりとお小遣いをくれたことを思い出した。

同じ歳になったからわかってきたのは、父からすれば、大人になった息子が寂しくもなり、家庭を持つことをやり遂げたと思ったりしたのかもしれない。正直、僕が10代後半に差し掛かると、両親は腑抜けになった気がしたし、目的を失ってしまったようにも思えた。若い頃いろいろある人だった。

亡くなったとに、父の評判や逸話を近所の人から聞く。本人は、僕ら子供たちを自慢をしていたらしい。両親に育てられなかった孤児のような父は、家庭に憧れ、それをできて、満足はしていたのかもしれない。痴呆があったとは聞くが、僕はそうではなかったのではないか?とも思う。

僕の家は、自己破産をして10代後半は大変だったけれども、仕事に恵まれて20代は、作曲とゲームクリエイターの仕事に恵まれた。贅沢なもので不安になり、社会人としてクリエイターであることを心配になった。40代50代、老後は大丈夫なのかとか、いろいろ考えるのだ。

48歳になり、父と同じように、僕は自分の子供を育てて、省みるようになると、いろいろなことが解決して、40代、「中年の時代」の終焉を迎えたと気がついた。あれも、これも難しかったことをすっかり忘れていて、やりたかったこと、全うしたぐらいに感じている。だから、僕は、アーリーリタイヤとして、経済概念を超えて沖縄で児童施設をやりはじめた、と思う。

児童施設でたくさんのご家庭を知り、多少歳を重ねたことで、いろいろな人と出会い、人について観察をしてきて、こころのなかの当たり前に思うことが、言葉に出るようになってきた。

僕のテーマは、子供の頃から「バチが当たる」不安感だ。この不安の原因は、コロナで理解することができた。

父の命が消えたことをきっかけに、自分は人間であり、生物であることを考えさせられて、欲と自己実現の塊が恥ずかしくもなってきた。僕は、今から下り坂で、社会や世の中に対して、謹んで生きることを目指さないとまずいと思うこの頃で、サザエさん的な大きな人生の物語のなかで、主役は若い人に移行をして、自分の存在は、お腹の贅肉のように、生物としては余剰していくと感じている。

つまり、死にたくはないけれども、死ぬことを目標に、いかに最後に自分の存在をゼロにして、きれいに旅たつのか。その想像を今からしておくことを考え出した。子供の頃から、将来を期待して生きてきて、登り坂を進んできて、今から終章に向けて、捨てていく準備をしていけば、うまく周囲に迷惑をかけずに着地することができるのではないか。

戦前の世界人口は、20億人。今は80億人に到達しようとしている。僕は、親しい人を失うのは嫌だし、長生きをすることと考えるが、別の自分としては、厳しい人類のリストラが起きていると思っていて、お腹の贅肉が出れば出るほど、自分が醜くなるわけだ。つまり、欲しいものを手に入れられて、美味しいご飯を食べられるようになって、生産性は下がり、昔の権威でいることのナンセンスさを覚えるようになり、生きたい一方で、この地球上では、霞のようで小さく、静かにしていかないといけないと思っているが、スポーツカーや最新のパソコン、楽器、好き放題な自分を20-30年かけて終章に向けていく、最後の晩餐だと感じている。

若い頃の、人生1度で好きなこと、やりたいように生きていく、などの思いも、下らなくなり、みっともない老い方をしないように、欲を知り、欲を低下させる練習段階に50歳から入っていく。

最近、僕は「幸せや欲望の均衡」って伝えているけれども、

那覇の住まいは子供の頃のように、4畳一間のごちゃごちゃした部屋だ。正直、学生もすまないような部屋なのだけれども、そこで「サッポロ一番」のしょうゆ味を食べると幸せに感じる。食べた後のスープにご飯を入れる。気持ち的にとても落ち着く。飛行機であちこち移動をして、仕事もプライベートも、美味しい会食でお酒が飲める一方で、那覇では1ヶ月1.5万円の食費で生きていき、それが幸せであると思える練習をしている。

車が好きなので、良い車を手に入れたら、中古で古くても、合理的で移動ができる車を大事にする。もちろん、車を持てるだけでも、幸せなので、車好きな自分としては65歳で免許を返上するので、今が最後だと思っている。

何かうまくいかない、不幸であるというのは、「自己実現」の欲の塊ではないか、とも思えて、幸せのために、地価の高い場所で、良い時間をお金で買うことが当たり前になり、「もっともっと」になっていると思う。僕は、40代を省みると、良い時間を過ごしたら、苦しい時間をあえて選び、チャンスが巡ってきたら、運の悪いことを大事にしたり、経済だけではなく、心の欲望の均衡を保ち、全体として歳と共に縮小していくのかなと感じている。

48歳の誕生日を目の前にして、キツイ感じもするけれども、日本の社会も、我々も生物として、縮小していき、所有や貧富でもなく、新しい時代に向けた幸福や、生活の充実を墓っていう時代なのかと、感じるこのごろです。

その思いは、沖縄の生活が教えてくれました。