最近オンラインカウンセリング「menta」のサービス準備をしていて、
心療内科の先生や心理士の先生にご意見を聞いたり、
また自分でも調べたりして、
社会学になるのですが、
自己の確立までのモラトリアムとSNSの関係・同調意識について
気になって真面目に書いてみた。
所詮、ブログもSNSもダラダラ日記のように書いていたわけですが、
グダグダ書いても、評論家でもないし意味ないなって思っていたわけですが、
たまには、最近考えていることとか、関心ごとなど書かなきゃなっと。
■多元的自己論
そもそも、この「menta」事業について考える際に、
周りを見渡すと2つ疑問なことがありまして
・ソーシャルやコミュニティが人々を幸せにしたのか
・情報過多の中、多くの人は決定や決断することが難しい(らしい)
これは、社会学でいう多元的自己論が起因じゃないかと、
短絡的ですが考えていて、最近調べています。
■身近で沢山あること。
ボクは、自分の会社をやっているし、
集団のコミュニティに参加することが良くあって、
最近、少々違和を覚えることがあるのは、
”その場面で最適化した言動、期待した返答は気持ち悪いぐらいするのだけれども”
違う場所では、
まるで逆の言動があったりして、けれども、
それを罪悪だとか、媚びるとかそういったことではなく、
キビシク言えば、人格の乖離、
つまり多重化した自己があるのではないかって考えています。
特に、ボクとは異なる世代。
■決められないこと。
また、沢山のソーシャルの情報のなかで、良くボクにも連絡がくるわけですが
この情報で、儲かるのかとか、記事について、情報が更新されるたびに
意見をどころか、詳細まで求められることがある。
そのたびに、大人なんだから、考えてよって
ちょっと頷けないことが合ったりする。
「いやいや、あなたはどう考えますか?」って聞きたくなる。
■ポストモダン
1970年代後半から80年代が子供時代ですが、ボクらの頃って
加熱する学歴・競争社会のなかで、進路が決定され
夫々の能力や才能、個性どおりに仕事を選べないからこそ、
(1985臨教審)個性重視と言われ、それが後の「ゆとり教育」へと繋がる。
正に、当時のアンチテーゼが、平成時代に遅れてやってきたのだと考えます。
浅田彰さんあたりの
ポストモダンな80年代。
産業革命以降、物の豊かさな時代から、
心の豊かさへの時代=平成の時代の
バブル崩壊以降に、自由とか個人の尊重、そして「ゆとり教育」によって
自分探しを幼年期から求められてきたわけです。
■ゆとりな時代
バブル期の日本の世界的な経済的勝利による余裕、
まさに「ゆとり」をもつことを
学力やら学歴が問われていた時代から、個性へ
余裕が合ったからこそ、次の時代=「ゆとり世代」へと繋がるわけで。
だから、ボクの後の世代、この時代に育った人、そして社会は、
個性だとか自己とか、イラク日本人自己責任論などでてしまう。
かわいそうに。
不幸なことに、FacebookやTwitterなんかそうですけれども、
「いいね」やらファボったりするわけですが、
多元的な帰属や社会参加で、アイデンティティが喪失していないか。
「生活科」ができたりして自分探しをしなさい、
自分とは何か、個性を磨きなさいって言われても、
一貫した自分ではなく、他人指向というか、自分の身の回りに合わせた
いろいろな種類の沢山の顔を持たなくてはいけない。
そうすると、自己の中で多元化してきて、デフラグしているのです。
キュレーターなんていう言葉がありますが、
これまでは自己の内側、内部に尋ねて決定した内部指向から、
基準は、自分の身の回りの他者やSNS外側の情報に依存するということになり
自己決定出来ていない。
これが問題なのは、
自己の喪失をしていて、けれども、どこかにそれはあると思って
モラトリアム期間がいつまでか分からないで、
何歳になってもアイデンティティを探し迷い続ける。
自己啓発本を呼んでも、何を読んでも、多元的だ。
そりゃ決まらない。
アイデンティティ=自分らしさとするならば、
もっと早い段階。
幼少期の方が確立しやすいと個人的に考えるのですが、これ家庭の美意識
というか、社会的な自我やら何も確立されていない
この時期の教育が全て決定するのかもしれない。
■他人指向
探し続ける元ネタは、LINEかもしれないし、Facebook、ネット。
SNSのつながりの中で、いろいろな人が、情報の渦の中で、
いつになったら、答えが出るのであろう。自己が確立するのであろう。
そのように考えたのですね。
ボクは、先日のITMediaさんの記事でも、
言い過ぎたかなって反省もしているのですが、
今のアイドルのサウンドは良いと思わない。
これは、敵に回す人も沢山いるです。
昔は、B面やアルバムで、ヒットは狙えないけれども、
プロデューサーやミュージシャンの趣味が反映されていて、
(松井寛さんの記事)音楽ファンも頷ける内容だったわけです。
でも、いろいろな人の関係性を考えたら、そういう自己の考えを
普通、言えないじゃないですか。
いろいろ社会や世の中を考えろよ、なんて、
ピーターパン症候群かと思う一方で
自分の考えをキチンと伝えられない、日本人社会は嫌だなって思います。
というわけで、
多元的な自己を演じないといけないFacebookもTwitterも嫌で
遊びやら、適当なことしか言ってませんね。
また、社会も多元的なことを求めすぎていますよね。
例えば、先日、小話で話題になったのですが、
水泳で優勝した選手に、講演をしてもらったら、スピーチがうまくなかったと。
でも、水泳のプロであって、話すことがプロでなくても良くてね、
トップミュージシャンであっても、性格が悪くても良くて、
寄付をしなくても良いのですよ。
もちろん、寄付した方が良いけれども。
全部を求め過ぎだし、それに答えなくてもね。
というわけで、多元的自己があることそのものを認識できなくなったアイデンティティ
は、個を喪失していき、均等化していく私たちなのだ。っと。
最近ウォーキングをしながら、考える時間がたくさんできますね。
※多元化する若者の自己とアイデンティティ資本
http://ocw.kyoto-u.ac.jp/ja/international-conference/22/v11022203