2011年3月11日から6年が経ちました。
何かを考えるときに、震災前と後を比べることも多く
被災地の苦しみと比べたら、些細な日常の気づきでとても申し訳ないのですが、
「当たり前に続く日常は、突如終わることもある。」
淡々と続く日常から、いま生きていることの実感を強く感じるようになりました。
未来や将来に向けて何をするべきか「走りながら考える」から
「止まって考える」
ことと、今を大切に
林先生の名言「今でしょ」が僕にとってテーマになりました。
なんとなく社会が、「今現在の思いや体験の喪失状態(経験よりはやく他者から入る)」
「今現在の意識が多元的(複数の場所に同じ時間)に所属しているから」
ずっと考えていて、
自分は、自分の問題も含めてこの感じをどうやって伝えられるか。
クリエイターから、教える立場でもある自分は、悶々とまとめています。
⒈教える立場は己を知る。今がないこと。
「名選手が名監督になれるか」
といわれますが、
ゲームやアプリを作るクリエイターから監督に今でも転向中です。僕にとって一番難しいことだと思っています。
まず、監督になるためには、己の能力を知ることですが、
長所が短所、短所が長所の表裏一体だと考えております。
自分の自己分析は、
先を考え、誰よりも「不安や心配」と、「期待や楽しいこと」が同じぐらいある。楽しく面白くアイデアを考えることと、猛烈にリスクを回避したり、心配したり、問題を解決する、悩みと考えることが同じ意味である。この両面があります。
「未来に意識」が存在することは、今現在が嫌なのか、苦しいのか、現在に否定的な感覚があるのではないかと自己分析をしています。
止まって考える。
「今」のためには、どうやって、今に意識を持ってくるか、、です。
2.なぜ、先ばかり考えるのか。
おそらく、
テスラやSPACEXの起業家イーロンマスクと、自分は吃音があったこと(だけ!)が共通しています。
吃音の人が、自意識が芽生える頃、
「周囲からの目を気にして」
「言葉が出ない障害を察知した相手の表情」にうたれないように、特定の言葉が発音できないことをあらかじめ予測して、会話をします。
類語を探して置き換えて伝えます。
流暢に話すためには、先の先まで自分が伝えることを頭で考えて、もし、その言葉が話せない場合に、置き換えをします。
吃音の方は、この意味がとてもわかると思います。
話すまえに、相手が言うであろうことへの回答のことばが、吃らないか、考えています。
常に、先読みをして伝えられるか、幼少期からの癖です。
子供なのに、語彙をたくさん知っているとか、知的に見えたり、わざわざ話が回りくどく伝わる、障害の原因です。
ギフテッドというような子供の指導をしていて、共通することに気づきました。
未来ばかり考える、癖、きっかけかもしれません。
大江健三郎や江崎玲於奈の発言を聞いていても、失礼ながら回りくどいと思われる方が多いとおもいますが、頭で考えていることのわりに、言葉が出にくくて、先読みして回避したり、表現をするための修飾や、
こそあど・・・前置詞的な言葉が増えます。
大平正芳元首相も、「あー、うー」と、ことばが出るまえに、発音しやすい音を出していて、名言になりましたが、当時小学生の自分は嫌でした。
ですが、自意識に目覚めたのは、このせいで早かったのかもしれません。
頭は先に行き過ぎていて、ことばが遅いのでスローに感じるかもしれません。頭の回転が早いけれども、ことばが遅い。
だから、大平元首相は雰囲気はマイルドな方に見えますが、頭の中は恐ろしくフル回転です。また、田中角栄元首相の吃音は、浪曲か落語で補正したと聞きます。
三島由紀夫の「金閣寺」は、吃音の青年が主人公ですが、三島の文体も情景にものすごく繊細で、本題や伝えたいことがでるまで、なかなか文章が進みません(笑)
文章上の吃音を感じます。
姜尚中さんも、今は克服をされたということですが、文体に同じようにも受け取れます。
この手の方は、回りくどかったり、先読みのことばが、他のことばに発展して、話が飛ぶ!とか、話が戻らないことの原因がわかると思います。頭の中でリンクのリンクを辿っているからだと考えます。
心の吃音状態です。発音できることばを探して、頭の中が忙しいから、関連・類語がパンパン浮かぶのですね。
このように、
「先のことを想像したり、未来を予見するとは、思ったことをことばにする問題。」として、
何か原因があるのではないか、とかつて自己分析をしました。
3.思いよりも先に「言葉」にされてしまうこと。
さて、吃音がおこる原因について、あるときに気がつきました。
大切な友人に
「他者について冷静に分析をするが、自分が思っていることに鈍感である」指摘に、ハッとしたことがありました。
「思うこと」を伝えていないことの問題。「思うこと」を伝えないと、周囲も思うことに鈍感になるのではないか。
自分は、さらに
「思うことが根拠がないので、自信がない」という人の発言を聞いて、さらに気づきました。
「思うこと」に鈍感な人の問題は、本来自分が思うであろうことを、
”距離の近い他者”に予見されて、先に伝えられてしまう環境があったのではないか。
例えば、親など、献身的・中心的な人物が、
内向的で、さらに立場下の人(子)に対し、心の中をそうであろう、思っているであろう、理想的な言葉を「本人よりも早く」伝えてしまう、思いを補正してしまったら、心を察知してくれることを他者に依存をするとともに、自分の思いの存在が希薄になる。
「XXくんは、こんなことは思わないよね?家に帰って、宿題する気持ちだもんね。」ということを、先に母に言われると、心では遊びたいと思っていても、母に承認されるために、うんと合意しないといけなくなる。
思いと、周囲の強い代弁者とのギャップが吃音になるのでは。子供たちを見ていて気づきました。
自分の場合は、親から独立・自立が早かったのか、
吃音からの解放されたことと、思いを音楽にする作曲作業はとても関係深く、
大人になって不自由がない、むしろ人前で話すことが面白いようになったのも、よくわかります。そして、感情的に不機嫌だったりテンションが高いと、早口になる。吃音の時期の先読みをすることも、忘れてしまいました。
いまでも、当時の癖はありますが。
「未成熟な者が思うことを、立場が上の者や、社会が本人よりも早く先に口外してしまう。」
「思うことを、先に言語化されると、自分の思いをわすれてしまう。」
4.言葉化(ことバカ)が早すぎる問題
「思い」を言葉にするのは、心の中の風景や悶々としたもので、かなり難しいと思うのですが、
自分も含めて、年齢に対し知識や語彙が多く、早熟な人なのか、言葉化がはやすぎる人が多いなと感じます。
あまりにも場面や情景に対して、
「しみこんだり」「ふっと、心に入る」
速度よりも、この場面でふさわしいであろう言葉が、LINEの連絡文章のように稚拙に受け取ることが多いです。
悲しいこと、つらいこと、問題、災害、いろいろな出来事を、メディアが思うよりも早く代弁してしまうのではないか。
悶々と考えていました。
自分も、先述の理由で、「思い」が出ることが遅い、あるいは、「他者のような自分」であることを、じっくり考えてきました。
さらに、ITの業界ゆえに、言葉をカタカナで伝える(=嫌みたらしい≒意識高い系)ことを、もっと深く掘り下げようと思った時に、多くの複雑で時間を要することを端的にまとめすぎて、じつは理解をしていないことではないか。
そのように感じました。
特に、3.11以降、メディアで報じられる過酷・残酷である状況と、それを論じるネットやSNSの文章により、本来複雑で時間を要し、言葉にすることが難しいことが、すぐに”ですぎる”かもしれない。
僕は、大川小学校にいって、静かな環境、暖かな気候の中で、言葉にできないことたくさんありました。考えれば、いろいろな思い。そして、観光のついでのように来て欲しくはないであろう、遺族、教師の立場、教師の遺族。思いは混乱しました。言葉にできません。
時間をかけて、経験をして、思うべき感情や気づきの積み重ねが、インターネットによって先に、目に見える文章・言葉で、わかりやすく、
検索する行為の時間が、早く・効率的(視覚的)に伝えられすぎてしまうからではないか。心の情景が単純な言葉や文章でシェアされたような錯覚になる。
情報の所有が早すぎて、年齢相応の感情の積み重ねが抜けた状態で、ただただ情報だけが膨大となってしまう。
吃音と同じように、思いよりも早く、外部から適切であろう言葉や文字が入ってきてしまう。
離人的で、だれでも自由である「思い」がネットメディアによって、心の中の矯正をされているように思います。
だから、僕は自分に軽薄だなとおもったり、受け手を考え、自分を伝えすぎる(読みすぎる)場合は、
僕は「ことバカ」(言葉化・事バカ・言葉馬鹿)と思うようにして、「そんな単純ではないだろう。。。」
空気を読みすぎないように思っています。
5.自分の思いをさがす
帰属する社会に、自分の本意ではないけれども、そうであろうと察しをつけられたり、自分はこう思う!、本心がどこにあるかわからなくなる。
帰属する会社でも学校でも、実は場面で使い分ける。スマホにもある自分の意識もSNSやアカウントで使い分けられる。
自分の本当なのか、正直なのか、思いの場所はどこにあるのだろうと。
親や立場が上であるもの、責任を持つものが、優れた「コトバカ」として伝えないともうダメなのかもしれないと思っている。
「怖い思い」や「失敗」を言葉で聞いているけれども、思っていなかったり、体感していないから、情報の所有だけが勝ってしまう。
見て覚えろとか、見よう見まねの時代、若いうちに失敗をしろ
の時代は終わったとされるけれども、僕ら世代、ネット以前の世代は、おもうことの豊かさを体感できるように提供しないと、
想定外の「突然訪れる問題(怖い思い)(失敗するかもしれない)」に対して、他者の情報のキュレーション(紹介やリンク、まとめ)が楽で、早くて、自分で壁を乗り越える衝動の思いが負けて、自己喪失が続くのではないかと考えている。
そのためにも、僕は衝動を信じて
酔っ払うとか、口八丁とかいい加減、偶然を追求して、泣きわめき・怒る半年を過ごしています。本当は言葉でも文章でもなく、言わなくてもわかれよ!
なんだけれども。
自分が”思うまえ”に、親や先生、社会から、思いを言葉で伝えられて、受け取ってしまうことは、自分が思うことを忘れてしまうのではないか。
吃音の問題と似たようなこと。
大人が子供に教えるべくことは、自分で考え、思いをもつこと。これが本当なんだと思うけれどもなっ。
3.11によって、リアルにテレビで見ていること、たくさんのSNSの人の言葉が、思うよりも、体感よりも早い。思いのデータベースになっている。そのように、思うこの頃です。
これは、母が歌の歌詞を覚えるための手がきメモです。書いて覚えるのですね。