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僕は、沖縄で児童施設をやっていて、個性溢れる子供達をみている。過去の記憶は随分遠いのに、自分の10歳ぐらいの気持ちを思い出してしまい、なるほどと、ふと沸き立つ。

多くの人の音楽の聴き方は、歌詞を理解してメロディーが強くはいる、あるいは、サウンド全体を抽象的に聞くのか、2通りではないかなと思う。

僕は、完全後者で、物事の抽象的で漠然とした状態から受け取る感性はものすごく高い。けれども、感情的なキャッチは希薄だから、冷たい人なのだけれども、人が有機的になにかをしても、本当はすべて個体認識をしている、といった立ち位置から意識が存在する。

音楽を聴く際にも、人が中心となって歌っているメロディ、歌詞は全体の一部として入ってくる。一般的に多くの人は、歌詞やメロディが中心になると思う。

僕は、20代は音楽をやっていて、知人に、数え切れないぐらい、たくさん手伝ってもらって作曲をした。20年後の僕が振り返ると、叙情的で歌詞を中心とした音楽の聴き方はしていないので、感情や気持ちから出る音楽は苦手だったと思ったし、誰かのために作ることは心ではやると思っても、本当は嫌だったのかもしれない。

僕は、歌詞やメロディが展開する、日本っぽい曲よりも、漠然と抽象的、繰り返しが多い洋楽なサウンド志向だった。

鏡の中の10月/小池玉緒

1983年だから、10歳の頃の僕はFM放送のエアチェックで音楽を聴いていた。沖縄の子供達と比べても僕はかなり早熟だった。後に音楽を作るようになって、言葉にできいるようになったけれども、不思議な音、カッコ良い、気持ちの良い部分を何度もテープを巻き戻して聴いた。この曲は僕が当時大好きだった。デモ版も公開されているが、最終盤のサウンドは、和音の繊細な修正もはいっている。

特に、「ため息ごとのジュテーム」の和音の変化が気になって、耳で聞いて分析をした。最近だと、Perfumeやきゃりーぱみゅぱみゅでも多用されるが、「借用の和音」であることがわかった。

ボーカルの子音がサ行の手前にある、耳ざわり良い感じは、音楽の仕事をするようになって、コンプレッサーを強めにかけて、吐息やリップノイズを過剰にする、フランス語的な響きにさせることがわかった。曲の最後のも含めて、全体的な幻想的なシンセサイザーのパッド空間は、prophet-5のシンセサイザーで特定のパラメーターを操作すると出ることがわかった。

子供の頃から、サウンドを中心に聴いていたから、作曲を教えてもらった時は、歌が下手なのに、どうして作れるのか?と驚かれた。僕は、感情や気持ちでは音楽が作れないから、作曲で悩むことはないし、音楽が作れないことも一度もなかった。

3-4年前から、CityPOPとして、アジアの80年代なサウンドが流行っているけれども、聴いてて思うことは、時代が元気で余裕があるときは、漠然として、抽象的で全体主義な文化で、なんでもやればよい。衝動こそ表現として、あるべき常識を覆す、ポストモダンな時代だったのだと思う。

今のように、世の中が大変な時こそ、叙情的で言語的で、集約された音楽になるのかもしれない。2010年以降、歌詞もメロディもとても強くて、サウンド全体な音楽があまり流行っていないような気がする。

そんな僕でも、売野雅勇の歌詞こそCityPOPで、大人のオシャレメンヘラ感がすごいと思う。割賦で洋服を買う丸井感なアーバン、池袋感が強い。

アスピリンから入るわけだから。抽象的にサウンドを聴くわりに、細かく分析をするのも僕の変なところだ。