右腕があがらないのか、細かいものをいじっていると
「痺れまして」
自分でも気づいていませんでした。40肩ってやつか。
そうか、忙しいと自分に鈍感なのだ。
僕は、ゲームや音楽を作る仕事で24年間過ごしておりまして、起きている時間は働く時間である、それが根付いていることと
面白いこと、楽しいこと、困難なことの問題解決なのか
集中が生産的にずっと続けられる性格で、体が悲鳴をあげるけれども、気が付かない。
そのような忙しい時に、絶対必要で、
僕が幸いできているのが、定期的に「遠くに行く」こと、
「音楽を聴くこと」とか、「今をきちんと見る」ことだと思っています。
特に、音楽は、今その瞬間のパッションやノリだったりするので、
最近は、そうか、音楽な生活が遠くなったなと、寂しい感じがします。
この写真も、なんていうのかな、
沖縄那覇の市場ですが、ことばにできない、感じ。この自分の写真好きです。
活気があるのに、沖縄の陽を受けない、どこかもの悲しい
ネオンは平成1桁っぽいぞとか。
音楽的に受け止めるというのか、
よく、風邪や熱で寝込んでいる時に(そういえば、僕は大きな病気はしないな・・・)
外の鳥の鳴き声、人の話し声、車の音が
ぼーっと、音楽や環境音として強調される事がないでしょうか。
音楽も、構成は何であるとか、和音が何であるとか、でもなく
ぼーっと全体を聴く感じ。
意味や理解で受け止める事ではなくて、なんとなく、ぼーっと。
ぼーっと入ってくる感じはとても大切で
大人になればなるほど、意味や解釈が強くなるのかなと。
最近、言葉に対する直接的な意味が強すぎるのではと思う事もありまして、
僕は、このぼーっと聞いて、後から解釈をする習慣はなるほどと。
最近、会話の文脈ではなくて、ピンポイントで、
その瞬間、その単語に反応をしすぎる人が多い気もしまして
思うことや感じることに対して、
世の中全体が鈍感じゃないかなとか考えています。
よく、ネットで炎上やトラブルがありますけれども
言葉や文章そのもののツッコミであって、
深い感情や背景に対して
察したり、受け取りができていないというのかな。
突っ込む方が見にくいなとか。
あるいは、言語解釈が強すぎて、相手と自分の距離感を考えずに
近づきすぎるとか。
自分はその人のことを知らなくて、相手は知っているとしても
本来は、いきなり深い会話はすることができない。
相手のことをわかっていないと、知っていないと、
何から話をすれば良いのかわからないのですね。普通は。
言葉も意味も大切ですが、
ぼーっと受け止めること、感覚をみがく。
僕は、かろうじて音楽をやっていてよかったなって思います。