先日、数年ぶりに親戚の叔父叔母にお会いした。
元気そうで、子供の頃と変わらなく、それでも大きな病気を乗り越えられて、横浜に来られた。
会食の最中、ご飯の食べ方、いろいろな配慮など、自分が受けたしつけと同じ。
「家族」の”ぞく”や、村”ムラ”を考えさせられて
親族は一緒だな、と思った。農家の出身だから、食べるものの大切さ。残してはいけない。
「バチが当たる」集団の輪から外れること、
自分は、中心的にゲームや音楽を作り、会社もつ立場だから
親戚は会社員が多いものだから、「事業を持つのは危ない」
なんとなく印象を与え、
心配といった、自分に向けられる空気や雰囲気も少々感じた。
おそらくムラ的な親族で、自分のような中心的な人生を送る者に対する
失敗や悲観的な見方が多いのではないか。
複雑な空気を読んだ。
考えが、連鎖をして、数年ぶりにお会いすることへ
自分なりの感謝やおもてなし、ご年配の方が苦労をしないようにしたことが、逆に
ちょっと場違い、少々派手で行き過ぎていないか、など考えて
空気が読めていない風ではなく、全力で合わせる修正をした。
ご飯粒ひとつひとつの感謝は深いことを思い出した。
場所代や値段に逆に気を使わせてしまった。
それでも、一方、色々と察するが、自分に対して、我は我であるという、場の雰囲気で自分をブラさないとも思った。これが折れてはいけない。
自分のバランス感覚は、自分で褒めようとも思った。
その同調的な親族の会話の中で、あの子はどうしてる?
最近は元気で、とか、色々な人を回想をすると
なんとなく「抽象化」した人への見方が特徴的であった。日本人的である。
何処の会社の務めである
何処の学校の出である、など集団に帰属をしたことの経歴の話が多く
その人の性格や特技、特徴が少ないことに気がついた。
例えば、僕であれば、ゲームが好きだったからねぇとか、
今でも音楽はやっているの?といった興味・性格的な内容があまりにもない。
そうか、全体から個人を俯瞰しているんだ。
以前教えていただいた、ローレンツの個体識別を思い出した。
・自分と相手を第三者から見る視点=森を見て木を見る=抽象化
・自分から見る相手への細かい視点=木を見る=個体(機械的)認識
輪や集団、農耕民族的に群れたり、同調をすることは、抽象化した人々の集合体
一方、
個性や才能などのエッジが効いた個性の容認=個体認識=コンピュータ型
自分の育った環境は、抽象化したムラ社会の中に、和を大切にする集団志向が強い中に、個性的な自分がいた。
自分は個性的であるが、ムラ社会の中で器用にやった。大変苦労をした。今でもムラにおさめろといわれる。
しかし、漠然と、自分はかけがえない唯一の自分である。
自分は人間性を取り戻したな、と思った。
一方、自分の会社は個体認識の中での集団(ムラ)。
真逆な問題が多い。
集団思考に乏しいのは、今ココにいる自分と、相手を、それを客観的にみる私たちの視点が少ない。
ということを、感覚でわかるムラ社会に生きる人は、楽になる。
個体認識の場合だと、相手と自分との二者間の関係であり。他者を物や機械的な認知となりやすい。
特に、相手を「意志決定の主体」としての「尊厳」は認知できないことが多い(引用)
この問題だ。
だから、全体から見た自分の立ち位置や、見え方を想像できずにいる。
まとめると、
もともと、自分の主体的な考えが強い一族、ジャイアンだからこそ、周りに合わせる。出る杭は打たれることを過剰に兄弟、親族で伝えあってきた。
ということ自体、不思議だなって思う僕なのであった。
先日、政治家が秘書にキレる問題があったが、自分と似ているようで、とても理解ができる。
自分は、「不可解なこと」、「理解しづらいこと」を、場面を思い出し、感情に打たれないよう学び続けた気もしていて
反面、おさめられるけれども、こころに溜めてしまう。今回、やはり血圧が高い親族と聞いて、自分に発覚した高血圧に負担かけないように思った。体に悪いことはやめよう?
溜め込まず、敵を作り、本音で生きる。とも思った。