アウシュヴィッツとウクライナ支援活動

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2023年、ポーランドのクラクフ近郊にある「アウシュビッツ収容所」にいった。

結論から伝えると、「人間の攻撃性」や「排他性」は、目の前で常に行われている恐怖ってことだ。

ロシアのウクライナ侵攻で、ポーランドのワルシャワへは3回ほど、ウクライナ近郊へも悶々とした思いでむかった。ナチスが、第二次世界大戦の際に、ドイツ国内のみならず、欧州のユダヤの人を集めて虐殺をした、「アウシュビッツ強制収容所」は、ポーランドの南部のクラフク近郊にある。

学生時代に、東西の冷戦時代と、ベルリンの崩壊によって、欧州が一つになろうとした時期だったので、ドイツよりも南東にある国々は、怖いイメージだった。ポーランド、チェコ、スロバキア、ルーマニア。日本人から見ると、たぶん欧米人は単一に感じるが、東側になるとスラブ系の民族だから、フランスやイタリアなどのラテン系の人とは大きく異なる。この地域はよくわからなかった。聴いていた洋楽は、アメリカかイギリスだったから。

コロナ前に、ドイツのベルリンからポーランドのワルシャワに鉄道で向かった。ベルリン・ワルシャワエクスプレスは、5時間30分で食堂車も併設しており、当時は1,000円以内でワインとおつまみをいただけた。

ステーションビルが、大阪・梅田のヨドバシカメラそっくりで、ショッピングモールには人で溢れている。日本食店も数々ある。ポーランド語はロシア圏の雰囲気だし、英語は公用語ではないので、怖い印象はあった。真逆で、景気は上昇し、かなり豊かだ。それは・・・ショパンを生み出したぐらい、芸術への意識は高いし、むしろ、日本人は、何て上から目線なのか?と自分が嫌になる程だ。

ポーランドの首都、ワルシャワから、東京と名古屋の距離ぐらいな都市が、クラクフだ。ポーランドの旧都市で観光地でもあり、長閑だけれども、日本で例えるなら、長崎駅や小樽駅のような静かで落ち着いた街であった。ドイツも含めて東ヨーロッパでは、駅名に中央駅とつく。正式にはKraków Główny(クラクフ中央駅)となる。

日本の郊外のように、駅の横にはバス・ターミナルが併設されている。

駅前から変わらぬ風景が続き、ちょっとした郊外となる。住宅地もあれば、田園地帯、放牧地帯もあり、雰囲気は愛知県の知多半島を車で走る感じだった。バスに揺られて90分ほどでアウシュビッツに到着する。

牛が放牧されるような、広大なエリアで、地平線の向こうまで緑が続き、林が点在し、静かだからこそ、無惨でどうしようもない、陰鬱感だった。郊外にかかわらず、不運にも欧州の中心地にもなり、鉄道が世界から続いているのだ。ヨーロッパ中に繋がって、ユダヤの人が集められたことは想像を絶する。

ガス室も、切り取られた髪で結ばれたもの、遺品、全てが悍ましく写真にも撮れなかった。

僕が気になったことは、2点。

アウシュヴィッツ強制収容所の所長「ルドルス・ヘス」

戦争が終わると、連邦国は、ナチスに関わる人々を裁判にかける。ヘスは逃亡するが、裁判にかけられてこの地で死刑となった。「ユダヤ人抹殺」の蛮行を手がけた。

家族への評判も、子供の頃から知る人々からの評判がよい。

子煩悩で良い父親だったらしい。その所長の家は、強制収容所の隣にある。強制労働はもちろん、ガス室の虐殺をした塔から、見えるぐらいの数百メートルの距離にある。所長の住居は壊されたとの記事もあるが、今でも存在しており、住民もいるから、住んでいる家の見学はできない。

私たちは、よく住むことができるなと思いがちだが、ユダヤの人から見れば、自分たちの民族や家族への思いがあり、この地に住むことに意味があるのだ。人は、自分中心とした想像になってしまうということに気づく。

ヒトラーに次ぐ戦犯、著名なナチス党員で、ヒトラー亡き後党首を継承した、パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス一家も、幸福そうで模範的・理想的な家族とされていた。実際そうであったらしい。ナチスのプロパガンダもあるが、家庭を大事にすること、模範的で極めて人道的なのに、数百メートル先では、他の家庭で、子供も、大人も残虐な虐殺ができることに、人間の持つ恐ろしさ 人の二面性を感じたのです。

当時、一般の人よりも高度な教育を受けた、インテリジェンスの高い医師や研究者でさえも、人体実験や遺伝子の研究など、犯罪に手を染めているのだ。資料が怖くて目を通すことができなかった。

国民の権利を保障した、先進的なワイマール憲法を制定したのに

数十年でナチス党による悲劇が起きる。「ナチス」や「ヒトラー」を主犯者という免罪符にしただけで、社会がそうさせた、多くの国民による意思であり、民意であったと思うのだ。当初は、ユダヤ人ではなく、政治思想が異なるもの、占領をされて服従をしないポーランド人を政治思想の反乱分子として、収容した。ついで、同性愛者や、精神障害者など拡大し、「ふつうではないひと」に拡大をしていった。

日本の太平洋戦争はどうだったのだろうか。

国民の世論や社会全体が「正義」のもとに誤った方向に動き出した

ドイツは敗戦不況になり、経済的に混沌としている時期。求心力があり、衝動的であれば、論理を超えた人を担ぐ傾向になるだろうなと。近年、ネットでも、何か問題があった人を徹底的に排除をしたり、消し去ることがおこなわれて、人格の否定まで進む。スポンサーの影響や世論に動かされる団体も、排除へ進む。

ウクライナ支援の団体でも、究極にロシアが悪いと決めつけすぎる極端な人も多かった。

ロシアの国民も思想や言動も統制をされている。武器を持ちたくないのに、家族を助けるために、双方の国で軍隊にむかう若者も多いだろう。僕は、子供達へは、「戦争そのものが悪いことであり」、双方に被害者を受ける人がいる。と多面的な伝え方をしてる。決して、ロシアやプーチンを良く評しているわけでもない。(ヨーロッパには、プーチン単独の軍事行動であると伝える人も多い。)

つい先日まで、活躍していたがタレントが、何かの過ちによって一瞬で活動が見えなくなった。全集中をして、特定の人を批評し始める。社会が、ぼんやりとした普通を議論して、排他的に変な人、偏った人を攻撃し続けているのだ。社会とは、顔の見えない民意が作られ、それが、国や民族を動かしていくのだ。

過ちに対する謝罪を超えて、必要以上に固執をすること。

人間のもつ、排他性や集団性は怖いと感じていた。

1989年にベルリンの壁が崩壊すると、1991年にロシアが共和国となるが、経済復興が混乱する中、独立をした15の旧東側諸国は、次第にEUの経済圏となり、経済成長によって豊かになっていった。ベルリンの壁のあと、すぐに欧州復興銀行の設立で、ポーランド・ハンガリー経済再建援助計画(PHARE)が実施され、東ヨーロッパにも資本主義が浸透していった。私が見た通り、日本並みに治安がよいポーランド、観光客で溢れるチェコも、メルセデスが走り、スーパーは豊かな食品で溢れる。ポーランドは、今でも高いGDPの成長だ。

ロシアは、エリツィンからプーチンへ、自由経済政策が順調だった期間は短かった。かつての親戚だった国々は、隣の芝生は青く見えすぎる。

第一次世界大戦から続く20世紀を、現代として考えがちだが、昔から続くこの地域の複雑性を学べば、アジアの東で生活する私は、わかりづらく、難しい。

独立後のウクライナやジョージアは、ロシアに対して、政権によって緊縮か軟化なのか方針が、度々180度変わっていた。NATOの拡大は、国の統治からすれば脅威であろう。民族と地政学と、複雑な地域なのだ。僕のような、発達障害な人は、白黒はっきりつけたがるが、世の中の多くは調和でありバランスでもある。答えは出づらい。

アウシュビッツのガイドは、著名な日本人の中谷剛さんだった。ガイドの中で説明はしてくれるが、考察として、我々に問いは投げるが、答えは考えさせるやり方だった。答えは、ひとつではないし、正論も、人それぞれ。言葉は、表面に過ぎない。

僕は、ウクライナの問題に対して、わずかながらであるが経済的な支援ができる団体を探していた。しかし、支援・正義をもとに、勇敢に活動をする人々の中には、この排他的な思いや気持ちをバネにしたり、重ねているような言動が目立つ人もいた。異和を覚えることも多かった。自分は、経済支援をすれば良いぐらい、軽い気持ちだった。

行動・活動をすることの重さを考えれば、立ち止まって、しっくり・じっくりしないといけないと思って、ブレーキをかけた。善悪、排他的、調和、グラデーション。語彙がいろいろ思いついた。

私の支援活動も、バランスを考えた。

わかること、できることをやるためだ。

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この記事を書いた人

管理人です。多趣味です。
沖縄在住です。音楽好きです。ラジオが好きです。

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