僕は、2つだけですが、嫌なことと悩みがあります。
どうでもよいこととも思いますが、コミュニケーションの雑談として。。。
その1
ぼくは、
「皮肉への仕返しが出来ない、しないこと。」
自分を下げすぎて、相手の本音や性根を引き出す癖です。
歳上の中心的な考えと見受けられる方が
「南雲さんは、お若く見えますがおいくつでしょうか?」
との(一応社長に対する)質問で、いつも、僕を知る人が、察して凍りつきます。
僕は、
「(こんなガキなのですが、)歳だけ”は”43歳です。」と返答するようにします。
もちろん、内心を正直に伝えると、(てめー、このやろう)という思いと、
非常識な者に腹を立ててどうするのか?という自己ツッコミ。
せめて、この意地悪い会話に対して、「自分を下げる」ことで、人ができているな、修羅場をくぐり抜けているなと、思われたい気持ちもあります。
察して、場を維持するために
「過剰に自分を下げる」ことで、周囲の方が自分をどう見るのか、試されている。そのくらいに、そのタイミングで対処します。もちろん、その方がどういった人生を歩み、どういった環境、立場で今おられるか、察することをして、こころの折り合いをつけます。
内心は「トゲトゲ」でもう帰る、ぐらいの気持ちですが、一旦スルーさせます。
僕は、マイルドな反面、心の中は(多分)気難しいのだけれども、周囲に心配をさせないために、フランクで柔和に主張をあまりしない。
これが問題なのですね。
その2
「いつの間に、自分のことが第三者に広まっていること。」
ごく一部の人にしか話していない、前向きではないこと、「プライベート」なことが、第三者に普通に伝わっていること。よくあることですが。僕は人として、本当にいやなことです。
本来の自分の資質として「ADHD」なことがとても多いと思います。これまで、自分の問題を解決するために戦ってきました。
ところが、第三者に、「この方はADHDだから」「気難しいから」と、平気で伝え、その伝わった「第三者」な方は、僕については、よくわからないからこそ、「そうであろう」前提に自分と連絡をするさいに
僕は「なぜ、あまり自分のことを知らないのに、こういうことを遠慮しているんだろう。」とか、「このタイミングで、このようなことを言われて」とか
点の言動が集約されると、点が枠になって、相手が自分に対して、どのようなことを思っているのかが、明確になったりします。
自分からは発していないのに、(あらかじめそうであろう)過剰な警戒や遠慮がある。
それを察し、ゆるやかに尋ねると、その方やその周辺の方が言っていたことがわかりました。
「ハゲの人が自分自身を茶化すのは良いけれども、他人にいわれたくない。」心理に似ています。
ここのところ、面接をする際に、自分が面接側で、よくあることですが
「私(も)」変わっているんです。
と言われた瞬間に、一緒に働くことが難しいと思い、採用をストップします。
自分が普通より変わっている、ずれているとしても、ある程度は社会のルールに従って欲しいと思いますし、補正をしていくべきです。
この言葉の裏には、そういう変わっている自分を南雲さんなら理解できますよね、との意識があるのか、慎重になります。
本当は、変わっていても、個性的でもある程度は社会の枠に合わせて、緩やかに調整をしなくてはいけない。僕はその厳しさを知っているから、耐えられるかどうかを確認します。
「このように言ってしまう」、この感じ「それ」がわからない人も、それ系な問題があり、まだ気づいていないから仕方がないなと思いますし、僕もわかるから許容できてしまう。
具体的にいうと、僕に会うと、「ADHD」「アスペ」ですよね?と僕や周囲に平気でつたえてしまう人がかなりいるのですが、
後に、僕のことをよく知ると、その方からすると、僕は多数派じゃないですか?となり、そこから自分の方がもっとひどいかもしれない問題に気づいて、その方は余計に悩み出す。
多数派、少数派でもなんでも、個性でも凸凹でも、仕方ない、開き直る。それでも、自分に突っ込んで、もがいて、もがいて。そのことは大切だと思います。ある程度の年齢になると、周囲も家族も、子供達へも迷惑がかかる。
僕はたくさんの失敗も、困難も、乗り越えた人、甘えない人と働きたいと考えています。だから、個性への承認を察するとダメなのですね。