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半世紀生きたことになりますね、想うことはいくつもありますが、最近は面白いことをやって良い40代後半でした。

10年ほど前、沖縄に向かい、発達障害の児童施設を運営をしました。社員はもちろんや地域の方にたくさんサポートをいただいて、児童が通所しています。福祉の資格、教職などエキスパートが集まっています。福祉の素人の自分が、沖縄市、浦添市、那覇市と開設できて、現地のスーパーで買い物をしていると、子供達や保護者にあいます。これが、学校の先生の感覚なのか?って思いました。

子供たちが、頑張って高校進学をしたり、大学、進学校の中学へ、好きな音楽や音響の専門学校、ついに、大手企業に就労する学生もいます。もう、改善をしています。

沖縄が大好きなのですが、東京から毎週往復が辛いのと、地域の人が地域の子どもを育てる意味で、地産地教と当初から予定をしており、現地の社員に経営をお任せしました。結果として、僕の後輩か、弟、娘のような同志を作ることができてよかったなと思っています。

今、発達障害が話題ですが、児童の8.8%が該当し、クラスに4−5人いることになります。(文科省)社会は、長い年月をかけて、周囲の人々が、発達障害だらけになり、障害ではなく、パーソナリティの問題になっていくと思います。

社会で活躍する人も、気づいていないけれども該当する人はたくさんいます。でも、適正に相応しい環境であれば、問題がないことと、発達障害の”障害”とは、発達障害が原因で引き起こす、うつや適応障害など二次的な障害と捉えています。治そうとか、周囲に合わせようとせずに、そのまま受け入れるほうが、結果として、治ることに近い例を子供達の成長でよくわかりました。

例えば、先日来客がありましたが、自己紹介や目的、今後の予定など伝えずに、打ち合わせが進みまして、参加者が「あれ?」と思いました。本人たちは気づいていません。私は、児童を見てきた経験から、そっち系かな?と思って、理解をすることができました。

取材の際に、「多くの人は、嘘をついている。初対面で天気の話をすることは、共通の話題を持って、相手がどれだけこちらの話に合わせられるかの探り合いをしている」と伝えています。定型発達者の世界は、無意識でセンサーの張り合いをしているし、言葉にならない、微妙なやりとりで生きているのです。異なる人、感覚が異なる人への理解が進めば、世の中はもっとよくなるのになと思いましたし、人々がありのままの自分であるための、ユニバーサル、多様化ですよね。

私も、ネットの文字の世界を見ていると、KYな人に見えるかもしれませんし、ボケキャラだったりもして、その通りですけれども、かつて、観察や直感は鋭く、相手の心を裏の裏まで読むことが病気となり、神経質っぽいのが障害でした。対人関係の障害で、裏の裏の裏の分析をすること、あまりよくないですよね。言葉ではこうだけれども、裏はこうだろう・・・。子供の頃から、感じることは割と人並みですが、本当の想いや察しを伝えず、抑え、合わせすぎて不適応になったのですね。

沖縄の施設をつくるための生活は、改善にもなりました。ADHD全開になれます。物忘れや不注意ですが、周囲は大変ですが、本人は、あまり問題と思ってないのです。この経験から、当事者は、そのままが楽で、生産的ですと伝えています。

特に、ゲーム制作者の世界は、こんなことがあったら、集中して制作できないこともあります。人を気にしてセンサーを貼っていたら、1日PCに向き合うことは難しいでしょう。一方、職場の環境や家庭環境も、類する仲間、パートナーや組織だったら、気づかずに一生を遂げることもあると思います。それで良いんじゃないかな。もし、何かしっくりこなければ、診断を受けた方が良いかなぐらいに思います。

定型発達つまり、一般的な人から見れば、不思議と感じるわけですが、それを教えてくれることもないでしょう。文字や言葉のない、空気ですから。でも、異なるレイヤーの人々が、重ね合って生きている社会なのですね。

当事者でもありますが、人間社会を興味深く研究し児童支援にも役に立ちました。

かつて精神科医や心理士に伝えられて驚いたことがありまして・・・・。

「あなたの会社の技術系の人は、アスペルガー、あなたは、ADHD。アスペルガーに囲まれているので、直感的な感覚が塞がって、アスペルガーっぽくなっている。」

 

コロナ前からの5年間、学校やら施設など接したモードでしたが、今は、開発系クリエイティブに100%振り切る途中で、環境を切り替えています。

「斉藤さん」

東日本大震災の頃、2011年に、私は「斉藤さん」というアプリを作りました。12年たった今でも、しっかり運営をしていますが、今はマッチングアプリと伝えられています。12年の間に、動画系、配信系SNSも一般的になりました。私は、吃音がひどかったので、アマチュア無線を子供の頃からやりましたが、マッチングアプリの原点でした。無線だとスムーズに喋れたのですね。それは、相手の顔が見えないからなのか、バーチャルだからなのか、人への恐怖があったからなのか、わかりません。人のつながりに対して、問題もありましたが、時代が変わり、マッチングアプリ婚も当たり前です。その分野のアプリを作れて本当によかったなと思っています。

先日アンケートをとって、使ってくださるユーザーさんから、暖かい言葉をいただいているようです。嬉しいですね。

長年、運営をするチーム作りは大変苦労をしました。当時は一般的ではなかったので、未来が見えないのでしょうね。関わる人や関係者も、アプリに対して熱意がなかったり、盛り上げていくというテンションがないのは、本当は嫌だ。と思っているからですね。

このアプリの作り手の私は、人を分析をして観察をしすぎる時期も重なり、暗に人の心は強く察するので、「それで働いているのに?」と、強く憤りを覚えました。結果として、全員辞めていただいたこともありました。今は、堅実に、しっかり運営をする長年の仲間が残り、コロナも乗り越え、大きなトラブルや事件もなく12年がすぎました。それは、とても嬉しいですが、苦労も多かったです。

人と人が出会えること、リアルからアプリへと進み、今後はどのような生態系になるのでしょうか。興味深いです。僕が死ぬ頃には、マッチングの精度もAIで高まり、相性も全て決めってしまうのかな、metaとmetaのAIマッチング。自己同一化できるのだろうか?ちょっと怖いですね。

 

「音楽ゲーム」

についてですが、携わったのは26-7年前になります。高校卒業して、数年後です。若い頃は当たり前ですが、自由に意見を伝えあい、数人のメンバーでゲームを作れる環境で、会社は、若者に開発を任せる環境があったのです。私は、コンピュータで音楽を作ったり、作曲をしており、かつDJやクラブシーンに影響を受けていたので、1997年に音楽ゲームを作ることができました。

今では一般化した、DTMのソフトは横スクロールで作曲をしていきます。私は、タイピングや数字で入力することが難しくて、鍵盤で弾いて感覚でリアルタイム入力をしていました。間違えないように、タイミングよくフレーズを弾くのですが、アドリブ的なフレーズや、思いつかなけれども、弾いているうちにアイデアを出したい時は、ループで録音を継続させるのですね。

時には、良いフレーズがあったり、ダメだったり、何も考えない方が良い時もあります。そのビートに乗せて、フレーズを入れていく経験をして、早すぎた。とか、ミスをしたとか、あとで修正をしたりしました。弾いたフレーズの修正は、数字やノートの画像を選択をして、削除するので面倒なのですよね。罰ゲームです。下手な時や、気分が乗らない時は、リアルタイムで演奏ができなかったのです。その経験もあって、縦スクロールにすると「ビートや時間が敵になる感覚」が、あったのかなと思います。

ニュースにもなっていましたが、その後、スマホやタブレットの太鼓の達人など、他にも作る機会をいただいたので、とても面白かったです。若い頃、たくさんの経験をいただいたこと、本当にありがたく思います。

先日、「なぜ、過去の作品についてつたえないのか?」と質問を受けました。会社員で作ったものなので、一般の企業であれば、在籍中のことはあまり伝えないですよね。機密保持契約もありますから、余計なことを伝えないようにと思います。私も、診断を受けたからこそ、よくわかってきました。

また、今、そういったゲームに携わる方々も、あれやこれや伝えたら、やりづらいし存在が老害ですよね。私は、今後も、他の事業をやっていくでしょうし、音楽もとても好きだけれども、趣味で自分が楽しければ良いと思っているので、あまり伝える必要はないと感じています。

会社員の時の私の存在は、ゲームコンテンツでもあるので、現実の私とも違う。余計なことはしない方が良いと感じています。今の中年の自分とのギャップや、イメージは、ネットの社会の言語的な世界では乖離しているだろうなって、思いますので、夢は壊さない方が良いですね。

私は、ADHDで、昔のことを忘れてしまうので、あれこれ伝えると、真逆の気質の人は、これは違うとか指摘もあると思いますし、そのようなこともありました。特に、ADHDのジャイアンってのは、最初にこれを作った、考えた、開発をした、など伝えると、あんただけではない!って突っ込まれる気質でもあり、嫌なので、余計なことはしないと思っています。wikipediaも、知らない人がまとめてくださっていて、自分も、昔何をやった?って確認できて便利ですが、だれかと出会う際に、僕の名前が個性的なので、調べられてしまうこと。会社員として在籍していた自分と今の自分は異なることと、監修も修正も本人ができないので、削除をしてほしいなと思っています。当時から、別名にはしていましたけれども・・・。

いろいろな経験があって、経験を与えていただいた会社もあり、先輩や上司がいて、応援をしていただいた、人や、クリエイティブのための調整をしていただいた、株主、投資家の方、会社があり、結果、今の自分があることは、とてもよかったなと思っています。こんなんでも、いきていけるので!と、沖縄の児童にも経験を伝えています。

さて、老後は、無線の特に短波でのデータ通信や株、通貨取引、老人ホームや、お墓のことに関心があり、調査をしています。

50歳をすぎたら、死に向かう現実が近づいてきます。近年は、私を育ててくれた父、そして、子供の頃から影響を与えてくれた音楽家の方が亡くなっています。本を読んでいても、作家の晩年は、自分の心境を書き綴ってくるので、切なくなります。

実際、私の思い出の場所は、どんどん壊れていき、あたらしい物に変わっていきます。世の中は、モノや物体が中心ですが、人は、老化と共に衰え、ついに体も意識も失っていくでしょう。恐怖の想像はかなりありますが、生きることの偶然性や豊かさも、ようやく、幸せという言葉の意味がわかるものですね。

私は、失うもの、弱くなるモノ、困っていくことに対して、できれば面白く提案できるなにか、それを今から考えています。スタジオ併設の老人ホームとか、ゲーセン老人ホーム、仮装墓かもしれませんけれども、次の新しいことを考えられるので、50歳になってよかったなと思っています。

どこかで、楽しんでくれる方や役に立つことになっていれば、こんな人生も無駄ではなかったなと、思って生きています。