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とても叙情的で、LOSTという喪失感なのか
何か、あとから気づく感情があります。

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以前、テレビの自分への密着取材で、
「さびしい」
という感情は、ないのですか。
「本当ですか?」
と、問われたこと。

自分には、いくつか、ほかの人と「ちがう」と気づく感情があります。
残念ながら、自分が「ちがう」と気づくこととは、
ほかの人と比べることで、「ちがう」という気づきであり、
ほかの人の思考そのものを、その人と近くなり、
自分で考えないと、わかりません。

メタ認知という、自己を客観的に見ていて、
自分と他者とは意識や思考の範囲が異なる
と客観的に考える力はある。
だから、この性分であるのに、
空気は読めて、ある程度は多くの人に適合できます。

空気を読めないふりをして、我を通そう、とか、
読めていないのに、分かったふりをしようとか、
読めているのに、読めていないふりをしているとみられているのか
自分も、それに入り込めるのか、
演技性なのかわからないことがある。
長い間の演技性で、とぼけるテクニックを自分自信にも適合できる。

それでも、他者に関心を集中し、
気持ちを、真剣に察し、理解をする思い込みはあるのですが

残念ながら、ボクの
「考える相手の気持ちは」
多くの人の
「意識(考える直前)でわかる、相手の気持ち」
とは、時間がかかり、恐らく論理的だと考えています。
考えることは、考える前の、意識よりも遅い。
普通は、意識でピンと伝わるもの(と考えています。)

話は変わりますが、ボクの会社は
横浜港が見える、高い場所にあります。
そして、多くの人が長い時間とするのに、
3か月でも、1年でも、2年でも、時間経過は

僕にとっては、瞬間的で
ワープというのか、意識の飛び方に恐怖を覚えています。

もうちょっとわかりやすく言うと、
昨日の記憶が、
夏から秋になっていたというのでしょうか。
洗脳というのか、わかりませんが、
何か夢中になると、夏が秋になっている。
去年が今になっている、ともいえて、何か自分が
時間を損したことになります。

多くの人は、歳を取ると、そうなるものよ。
と言います。
僕にとっては、普通ではない。
間違っている。
自分は、何か集中をしたり、必死だと、
その時間は、無い。覚えてはいない。
1年前のことも、多くの人で言う、昨日の認知なのです。

そこで、自分は、自分の時間を「ゆっくり」させようと考えています。
多くの人の1日は、ボクの30分かもしれません。

「ゆっくり」しよう、と思うと、

毎日見ていたはずなのに。
すくなくとも、1年以上、この場所にいたはずなのに、
目の前に見える、雨の日の横浜港を、じっくり考えるのは初めてです。
もったいないというか、
失いそうになって、やっと気付いたというのか、
余裕がなかったのか、
1年を洗脳されていたのか、悔しい気分になります。

今、ボクは、40年近く前、このあたりに住んでいて
当時も、横浜港を見ていて
デジャブなのか、
母親の着物の買い物と一緒に、スカイビルから見た雨の日の横浜港も
父親と、曇りの日に大桟橋にいて、遠くの船舶用信号の「F」を眺めていたのか
東横線、高島町にパジャマで言ったことなのか
フラッシュバックのように思い出しました。

自分の中では、
面白いのか、恐怖感なのか、集中し夢中になると
時間経過もわからず、ついこの間のようになる。

多くの人は、ゆっくり、なだらかな、
時間を豊かに楽しむことが、普通であるのであれば
自分は、全速力で
気が付いたら、42歳になるということかもしれません。

多くの人よりも、時間を損している。

自分自身の人生そのものも
刹那
であり、周囲からは凝縮されていたとも見えるでしょうし
自分は、その「刹那的な時間」を
ようやく、自己認知することができて、人生で、お金以上に
味わい”薄く”、損をした感じにもなります。

自分は、幸い、
「集中」する特技を、今更気づいて、
今まで当たり前の日常の連続であったことが、
40歳を過ぎて、体力が落ちて、ようやく、疲れがたまり、
集中しすぎることと、その虚脱感で
病気になっています。
「普通の人にはないけれども、自分は集中をする人生だったのだ」
と。周りの人は、何をいまさら。
夢中になると、周りが見えなくなっていたのだ。
誰もが、集中できることが、うらやましいと言います。

集中は、「快楽」か「予期不安」で発動する
self-mind-controlとも考えています。
この二つを発動させ、就職をしてから、全速力で走り続けてきて、
ようやく、多くの人の、スピード感や生きる速度の意識とは異なる
って気づきました。

調和と、部分的な最適化。

時間当たりの、出入力の感情の享受量は低い。
感情に対するコストは高い。
それは、多くの人にとって薄情とも、冷酷ともいえる。

人の優しさに触れたときに、
優しさを受け止めた時に、感じること。

WAIS IQが140でも、多くの人よりも先読みができるなど、
読めていないようにふるまえても
この薄情さはどうでもよい。

「多くの人の愛や、感情を受け止める」ために
生きる時間の質は、多くの人の体感時間と同じ方が良い。

逆に、多くの人は、自分の意識をわかることはできるのだろうか?