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街歩きが好きで、気がつくと10キロ歩くこともありますが
いつも考えるのは、
今のこの瞬間は、過去になり、
将来に今を振り返るであろう。

過去になるのだろうな、という想いとともに、
自分のタイムラインに、ブックマークなのか
マーカーをつけています。

路地を抜け、大きな道を横切り
場所の匂いを嗅ぎ、生活をする人々を見ていると
違う国の人のように、何か傍観者のような気もして
外にいるのに、昔の思い出に浸ることがあります。
歩いていると、心細くなったり、
ネットの地図でしか見たことのない町名の
ルーツを探したり。

その中でも、ブックマークをつけた
かつて住んでいた場所や、通っていた場所というのは、
永遠にその場所が自分に存在し続けるような
過去、当たり前に、その場所に生活をして
コンビニに行き、仕事から帰ってきて、生活をして、
電車に乗り。
懐かしいとか、悪くはないのに、切ないということになります。

自分は、横浜生まれですが、

自宅からみなとみらい周辺が生活圏で
横須賀、鎌倉湘南、相模原方向というのは、
何か得意な用がないといかない。
ただし、用がある時というのは、何か決定的な
良い、楽しいか、悪いことであり、普通ではないので
もの凄く記憶がよみがえる。

郊外のファミレスなのだけれども、
深夜に長いして、答えのないループ話をして
ネタに尽きたことを、双方でわかりつつも、
沈黙が怖くて始発までいたなとか。

なぜか、テーブルの上で、クシャクシャ丸める癖の
ストローの包装紙が、ボロボロになって
余計に細かくゴミになったとか、
店の中にいた他のお客さんとか、思い出します。

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中途半端に近くて遠い場所、
地元の人たちがいかない、文化圏が違うというのは、
都心や、市の中心ではない、あえて逆方向の
10-20キロぐらい。

通勤の時間の際には、逆方向に、帰宅ラッシュであれば都内を目指すような
学生、モラトリアム期間がふわっとよみがえります。

その場所というのは、
何かと、悪いことには都合が良くて
若い頃、隠れていろいろ仕事をしたことを思い出しました。

東海道周辺の古い商店街を通り抜けた時に、
バブル期、高校生で稼げる仕事というのは、
ハードだけれども、僕は、とあるところで、灰皿を洗う仕事をしていた。
友達にも、あまり言えなかったけれども
音楽の演習のために稼がなくてはいけなくて
毎日、バイト先で、掃除、とくに灰皿を筆で洗う作業をして

その場所の人たちというのは、
自分とは世界が異なる人が多かったわけですが、
私生活が見えない、不思議でもあり、
同じように、自分も場違いに見られていたのか
いろいろ背景を隠さない都合もあり、
浮いた存在だったのだろうけれども、
親の力も借りずに、自分で探した仕事だった。

今と比べれば、当時の自分は
表面上は、うまく周囲に合わせられ、
自分の意見を言うことに、意味も目的もないと考え
ただただ、
時間が過ぎて、時給通りに稼げるように、
敵も作らないように、穏やかでよく振る舞うことができた。
今とは大違いだ。
根っこは、適応できていないのだけれども。

音楽のレッスンの費用は、高くて
ピアノやソルフェージュを習っていたのだけれども、
ハードな現場というのは、音がうるさいし
レッスンの時は、耳鳴りがひどい。
そして、灰皿の掃除で、手は真っ黒だし、ボロボロで大変。

ある日、人差し指の皮がぼろっと向けた時に
社員だと思われる人が、
最初は、むけるよな、俺も、昔そういう時期があった。
そのうち、指の皮が硬くなるよ。
と言われて、居た堪れなくなって、
そして、灰皿洗いに使う、人差し指の第二関節の皮は
見事に、厚くなって、触ると成長ぶりに気持ち良いけれども、
嫌になって、徐々に仕事を減らしていった。

最近もよく言う言葉なのですが、

自己評価は低いけれども、自尊心は高い

学生の自分にとっては、将来への不安と
社会適合の心配もあって、
30歳も40歳も、灰皿を掃除していることを想像した。
すると、辛くなって、
また、灰皿掃除の手法を、きめ細かに教えられれば
教えられるほど、自分が大丈夫か、自信をなくしていった。

その前に、自分はマクドナルドに応募した際に
君は、(当然かのように)カウンターから、中(厨房)だね
って履歴書を出して、一言で
何か、そうであろう、人生や展開を人に決められるのは
嫌だったのだなと、今も変わらないないなと、
回想をするわけです。

そのように、当時を思い出して
中途半端な距離の商店街をあるき、
24年前と同じネオンや看板をみると、裏路地に行ってみたりして。

また、当時は吃音が治る前でもあり、
一見、普通を装えるので、言葉少なめに
一つ一つの言葉を、自分なりに考えて、じっくり伝えていたと気がついた。

相手の言葉もとても覚えていて
話の流れを捉え、
そして、自分もしっかり考える、というよりも
考えすぎてしまう。
相手に対する応報が、難度高くならないように、
身元がばれないように、自分が考えた
自分の設定、物語が食い違わないように。
事情があって、中卒にしていたからなのですが。

ふと、不器用な、今でもだけれども、
当時を思い出し、
一人で黙々と歩いていて
考えるというのは、
あるいは、人と話さずに、吐き出さずに
自分の中に溜め込むということは、
人に会うために、大切な時間だと考えて

当時は、人に伝えられない、隠し事なのか
内面の吐露できないことを不器用に抱えて
でも、繊細で
今の自分は、まあ、面倒だから、いっぱい飲めという
成長=がさつ、大人な自分は強くなったものだと。

今、表現や伝える手段、
多くの人の表現が、気軽に簡単であることは、
何か、伝え続けないといけないというのは、
ぱっと、
自分の受け取っている、心に移る情景の伝える力は不器用になっているのかもしれない。

当時の自分が見えていた、無意識に感じた
目的地の過程でしかなかった、街は
何も目標も目的もない、彷徨って、ぼんやりとしていて
時間は無限にあり、わからないからこそ、
曖昧で、偶然で。

今は、明確になっている、とか
こうあるべきである自信なのか、
街や場所に対する、感覚的な心象風景が乏しく
時間に押されて、まるで、自分の残り時間を急ぐような感覚がある。

遠くの街、用のないない街こそ、
じっくり、ゆっくり、時計を戻せるのだなということと、
今現在もブックマークをつけて
数年後、数十年後に回想するためにも、
おそらく、
ネットやSNSではない、
自分以外の人か、何か、記憶の共有ができるのは美しいなと
ふと、歩いて思うことです。