ゆっくりな時間

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あけましておめでとうございます。

本年度もよろしくおねがいします。

正月、「ゆっくり」することを心がけた。
最近の僕を知っている人であれば、
「ゆっくり」「だらだら」「なんとなく」「だらしなく」「がさつ」
になるってことは、びっくりするだろう。
もともと、僕はのろまで、ゆっくりしていたのだと思う。

ここ数年、
特に昨年の仕事ぶり、
今風の言葉ならば「爆速」というのか
理屈となぜなのかの論理なのか、
第三者的に客観性なのか
ドライなのか、嫌な問題も逃げずに
全て最善、最適解で突っ走った。

そのおかげで、
常に最悪の事態は避けられて
復帰復活も早いのだけれども

反面、大切な心のゆとりを失ったと考えている。
生きている、生きることの
時間を大切にして、今を喜び、今を楽しむ。

実は、昔から、
だからこそ、僕にとって普通だったことですが
「今がないこと」
が”当たり前”だったのです。

例えば、旅行も、食事も、楽しい時間も
体はその場所に存在しているのだけれども
常に焦燥感があり、その瞬間には自分の意識はなくて
先を考えている。

常に、何か問題や、おかしなことはないか
安心や安住できないわけですが、
結果、先読みや何か、察する問題を解決をしてきているから
一概に悪いとは言えないし
会社の経営も波乱万丈の割には、早く元に戻る
最悪を避けれているのかもしれない。

ただし、僕の人生からすると、
時間を「大きく損したような」
気持ちが大きいことに気づきました。

 

心理士の先生と、その原因を考え出したわけですが、
幼少期から、普通の家庭にないような

不安定な場所にいたり
周囲と違和を感じる不適合な場所に自分が存在していて

今、そこにいることよりも、抜け出した未来に
自分が意識していて、
その場所こそ、目標や、安住できるであろうことだったのかもしれない。
僕は、多くの人が経験をできないような
刹那的的で、人並み以上の贅沢で豊かな生活も、
逆に、帰る家がなくなってしまったこと
お金がなくて困窮したこと、破産も、

仕事がなくて困ったことを
10代のうちに経験をした。

だから本来、大暴れで衝動的な性格なものの
補正し、中途半端な適合をしつつ、
その場へのストレスや、
存在することすらも苦痛なことを経験して
逃れるための意識が働いていたのかもしれない。

常に、先を考えて、今、自分は「ここ」にいない。
何か、バチが当たる、アリとキリギリスのような問題が生じるのではないか。
今が楽しくても、嬉しくても、何かあとに問題が生じるのではないか。

せっかちな性分は
長所とも考えているけれども、補正をするために
年末年始は、ゆっくり、焦らないことを目指した。

今日中にこうやるべき、ああやるべき。
これを、今用意しないと、次のことが進まない。
自分が、何かをやらないと、他の人が、進まない。
もし、こうだったら、ああだったら。
そのようなことを考えず、刹那的で
場当たり的に、神経質にならない。
神経質ではないことを、がさつさを装わない。

ふと、くだらないことかもしれませんが、
車が壊れた、
ディーラーに修理を出すと、年始の始業は何日で
部品代の想定はいくらで、作業代はいくらで
自分で直した場合の、コストはどのくらいで
後者であるのならば、部品を今のうちに取り寄せて

それはドイツで、DHLでの空輸の料金とか・・・

考えるうちに、パニックになり
もしかしたら、「この箇所がこわれたということは」
「同じ機能である他の部分も壊れるのでは」
など、将来に対する嫌な関連付けが起き始めた。
仕事ではないのに。
このような、朝から晩まで様々な事象を考えて、脳が疲れる。

でも、その自分の客観的で冷静に見る自分も存在できていて

まあ、動くし、滅多に使わない機能だし、
いつでも良いか。っと。
今の運転を楽しもうっと。

数時間後、数日後、半年後、10年後の心配のために
今、あらゆる事態を想定してしまう
仕事以外でも、この問題を軽減しようと考えている。

ところで、
僕は、ここ数年
中心志向というのか、「我がまま」をあえて目指して
この歳になって人から注意されたり、
不快感であろうことをたくさんしてきた。(と思う)

場にそぐわない恰好、話し方。
わざと、
「周囲が、違和を覚える表情、その空気を読むこと」
に快感だったのかもしれない。
表情の時間的な変化を読み、トレーニングをしてきた。

数年間、自分は、常に止まらないボイスレコーダーを開発して
24時間、音声を記録し、裏をとる。
そのような自分は尋常ではなかったと考える。

空気も読んでいるのだか、
読んでいないのだか、酒に酔ったふりをする。
そして、相手が油断をしたときに、本心が読めてきて
次の言動や行動を予測して自分に有利不利を判断する。

これまで、お行儀が良い、低姿勢、謙虚
がモットーであったのに、
ここ数年人が変わったと言われることがある。
本来の自分を取り戻すために、そのぐらい徹底した。

以前の自分の場合
存在の不確実さ
将来、何かの際に、見捨てられたらどうしよう、
嫌われたらどうしよう
反面、周囲に、安住を求めた依存型な人々が集まりだしたともいえる。

自分の先読み、将来への不安解消が
責任を持たない人々に共依存
となってしまったとも見ている。

ところが、自分の根拠のない遠慮=ACを脱して中心志向になり
自分の本当、本意をじっくり昨年から考え出すと
周囲の人々も変わってきたように思える。
今の僕の、
がさつで、中心志向な自分に適応できる人々に。

おかげで、自立型の人々、自立型へ転向する人々に囲まれ
自分は、
はじめて、じっくり、ゆっくり考えられる時間を頂いた・
じっくり、ゆっくりと時計の速度を普通にしだすと。

さらに、僕は中心志向から合理的な自分を取り戻している。

今、その時間、存在する人や気持ち、思いが伝わってくる。
表情も、声も。
時間あたりの密度が濃いということなのか。
時間あたりに入ってくる情報が濃くなってきた。
このテンポ感を守ることではないかと。

最近、村上春樹を読みだしているのですが
これもトレーニングにはとても良かった。

心理描写や情景が繊細で
なんども読み返さないとわからない。
読むたびに、解釈が変わるし、
こうである、答えがない、結論がなく、
読み手の解釈に委ねることが多い。
自分が雑多にしていた感情でもあり、
今を取り戻す、良いキーワードだったように考えている。
気持ち、心。

知能テストでも、考える処理速度が早く
周囲の変化を察する、変化適応のストレスが強いということだったけれども
合理的過ぎていて、二元論過ぎていた。

今、自分がこの場所にいて
時間とともに、自分の思考も、血液も、空気も流れている。
その取り戻しこそが、本来の、そのものの自分の取り戻しだなと
考えています。

時代と逆なことを言っている気もしますが、
本当に、豊かな人生とは、時間の密度の濃さ
時間あたりの感情の深さとも言えるし
合理・社会性が問われる今であれば
成長や進化を、客観視して楽しめるぐらいのゆとりかもしれない。

もし、時間に忙殺されていると思うのであれば、
ゆっくりを忘れているのであれば、
表情や行間を読む
自分へのゆとりに気づくことかなと考えています。

ここ数年、お正月に

じっくり考えることは初めてではないか
その環境になりつつある、
自分に与えてくれた、許していただいた、サポートをしてくださっている
暖かい周囲の方々に感謝をしています。

今年もよろしくお願いします。

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この記事を書いた人

管理人です。多趣味です。
沖縄在住です。音楽好きです。ラジオが好きです。

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