会社を経験していたり、組織を見ていると
嫌なことがあります。
そのような時、感情の前に冷静に分析をしてみる。
面倒に長いのですが、
多数派同調性バイアスについてです。
僕のような、天然と言われる場合
子供の頃から、
大人並みに物知りで色々興味や関心、活発で積極性があって
落ち着かず、周囲の調和や状況が見えなかったりする。
つまり、「空気が読めない」こと。
小学校の低学年から、そのような自分に気づきはじめて
補正を僕なりにしていて、相変わらず空気は読めないけれども
周囲とある程度の調和はできて、そこそこやってきた気もします。
中途半端な、考えて意識すれば読めるし、自分が中心的な意識だと読もうとしない。
読んでいるならば、「あざとい」になる。
読んでいなければ、「仕方がない」になる。
僕の中途半端に位置するこの問題が、30代に大きくなり、じゃあどちらなのか?
多くの人が無意識に働いている、同調のための”センサー”
低級の処理とも言えるし、完成や動物として生きるための感覚だと思うのですが、
多くの人が考えずに自然とおこなえることが、
僕は、かなり意識をしないといけなく、考えてもおそらく追いつけない。
「孫悟空がお釈迦様の手のひらに乗っている」
と指導を受けた。
お前ぐらいの頭なら、わかるだろう、ということが、わからなかったり
わかる面倒くささ。
もともとなのか、幼少期からのメタ認知によって
知能の処理が異様に高くなったのか、読むと読みすぎるし
空気を読まないポーズをして、時間をかけて相手に油断をさせて
本音や本当をわかろうとする癖もある。
だから、ヒステリックな病気にもなった。
子供の頃、吃音がひどかったのは
周囲の空気や相手を読みすぎて、話す前から相手を読んでいた。
だから、塞いだのかもしれないとも思っている。
自分中心になっているときは、アイコンタクト力が低い。
狩猟系な人というのは、
狩りのために動物的に相手を読みすぎて、面倒で嫌な思いをするから
読もうとしなかったのかもしれない。
この手の人は嘘をつかないし、
多くの人にとっては、
表面上は 一貫性のない多面的な自分が存在して、それが当たり前という要領がよいなかで
アーティストでも、職人さんでも、クリエイターとでも、真実や自分の中心に何かがある人とのバランス。
良いもの、理想や目標を達成するには、障害や病気でもない
社会のために必要なバランスであり、
うまく世の中が出来ているな、とも思います。
なんとなく不適合で、まだ自分に気付けない人
本来、重めの人が、たくさん集まり
少数派と多数派が反転しても、言語の依存だけの空間になるし
一方、無意識では、わかってくれる人と思っていたが
僕を普通の人だったとも感じられるだろうし
両方に属せない いやらしさや面倒くささはあります。
という自分に、客観的であり、自己ツッコミは必要じゃないかなと思うことはありますが。
ところで、言語や視覚が優位で
言葉にしないと伝わらなかったりして、
統合された感覚の受け取りが低い人が多い場合ですが、
(多数派にとっては、おそらく、「なんとなく思う感覚」「感覚も言葉にしないといけない人」が多い場合)
多数派が「意図的」であるけれども、言葉にしない、証拠の残らない「無意識」ですすめる同調圧力に気づけない。
だから、少数派が多数派になっている場合は、気をつけることでもある。
気をつけ方の第一歩は、「知らないということを知っている」でよい。
少数派には、多数派が瞬間的に、
この場の主人公や問題な人など
状況を目配せや雰囲気で共有できてしまうことをしらない。
多数派的には、チョロい。とでも言える。
多数派は、社会や組織において
どこまでが許されて、どこがダメなのか
動物的なサーチによって、時間をかけて理解をして周囲との折り合いを作れる。
ただし、問題があって
計算高いとされる多数派でも、ストッパーがない場合
どこまで許されるかという、臨界点を広げていくので
やがて常識を逸脱して、
普通の社会ならば、許されないであろうことに広げてしまう。
本来おかしいことも、おかしくなくなる。むしろ、行き過ぎる。
多数派同調性バイアスです。
なぜならば、少数派の環境や、普段日常的にありえないことが起きると
本来持つセンサーが低下してしまうから。
多数派で相当知能の高い人を除けば、流されるのですね。
少数派は、
・自分の中にある正義や真理に基づいて行動をしていて、周囲もそうであると思ってしまうこと
・言語や目に見える行動でしか理解できなく、サーチをする持久力がない。
・逆に、過剰に周囲に合わせなくてはいけない、AdultChildren的な思考によって、合わせすぎた結果乗っかってしまう。
だからこそ、そろそろ問題が起こる時期だなと思うと、
僕は過剰に
「空気を読めないキャラ演出」「ヘンテコな洋服」演出をしながら
神経質に周囲を観察をする。
すると、普通の社会では許されないこと、「暗黙のルール」を逸脱した発言が普通に起きて
引き出せる。深読みできる人は、その前に止める。
そのまま、あえて、のっかる。
僕が気がつくほど、あからさまなことは、多数派にとってかなりの警告レベルである。
最後に、公正公平に水戸の黄門様になる。
リアルタイムに空気の読めない少数派が飲み込まれる経験を繰り返したから、
会社が潰れそうになったから、面倒な癖がついた。
だから、空気が読めない連続の人を羨ましく見えるし
そうじゃない人は、
自分のように、同じような苦労をしているんだなとも思える。
また、そんな自分に対し、
「普通ですね」とか 言えてしまう人も、
そういうあなたこそ
口に出しちゃうことそのものが、同じですよって思うし、
もし、そのことに気付く力や知能があったら、
このあと同じような苦悩が訪れるから、
不適合がなければ、わからないままで良いとか、考えるから面倒だ。
本来は、ずれていても社会にとっては必要で
「そのままでよい」のだ。
僕は、集団や組織において、常に「足りない機能」を学習してしまう
面倒なことをして生きてきた。
多分、努力とも苦労でもあるし、厳しい自己ツッコミでも、生まれながらに不安定だったのだと思う。
以前であれば、
完全な理論武装をした自分の中のジャイアンという
中心思考でブチ切れて対処をしたのであるが
状況を面倒だけれども、
あえて、空気を読めない風に、笑いながら、理路整然に
面倒だけれども言語にして説明をすれば
理解が難しい人も、わかるのではないかと。
僕は、自分の特性。完全・公平であること。
私利私欲ではなく、自分のためにではなく、組織や社会のために判断すること。
馬鹿正直に、そのまま言う。
徹底したジャッジ。
それを学習する5年だった気もする。
社会や組織、集団は、少数派の正義だけでもだめだし、
ユートピアニズムと、リアリズム
この繰り返し、連続であることも説明ができる。
うん、僕はクリエイターなんだけれども、クリエイターになれないのは
少数派の人々を、経済だけではない部分の
補填の人生なのかもしません。
このことは、少数派の人はわからないかもしれない。
「おまえは、嫌なことをせずに、そんな長いブログも書かずに、
好きなことをニタニタ 作っていればいいのに」って。
そんな、嫌なことを気づいてくれればなぁ。
あと、僕が空気を読まなくても良いように、こんなクソ長いブログを書かなくて
おまえはシンセでもつくってろ!
ユードーでやってやるぜって人募集します。